【市子】「離婚後300日問題」により「いないこと」にされた子ども。川辺市子の生涯を外側から描いた物語

長谷川との生活を、市子は心から愛していた。彼女が「幸せの象徴」と言ったお味噌汁の匂い。長谷川と手をつないで歩く夜道。一緒に食べる温かい食事。

「うち、今幸せなんよ」

長谷川にそう言った市子は、映画のラストに辿った道を“望んだ”わけではない。彼女が真に望んだのは、「普通に生きる」ことだけだった。

“普通”の定義は、もちろん人それぞれだろう。ただ、市子が望む“普通”は、彼女の手から離れた。市子がそれを強く望めば望むほど、遠くに離れていった。そのことが、悲しかった。

雨に打たれながら「全部流されてしまえ!」と叫んだ市子の姿が、脳裏に強く焼きついている。私もよく、似たようなことを思う。それでも、結局諦めきれないのだ。自分の生育環境が“普通ではない”ことを充分に自覚しながらも、「普通に生きたい」と願ってしまう。そんな自分を、市子に肯定してもらえたような気がした。

どんな過去があろうとも、幸せになりたいと願っていい。幸せを求めていい。

これが“きれいごと”と呼ばれない世界をつくるために、市子の声は必要だ。物語はフィクションだが、その中には多くの現実が混在している。混ざり合った境目を覗き込む時、いつも酸素が薄くなる。それでも、私はそこに飛び込む。

きれいじゃない現実から目を背けているうちは、正すべき問題を正すことなんてできない。痛いもの、苦しいものからは、誰しも目を背けたくなるだろう。しかし、「大勢の無関心」こそが、社会課題の根治を難しくしている。だから私は、私から見た「川辺市子」の姿と声を書きたいと思った。市子を「いないもの」にしないために。市子のような子どもたちが「いること」を伝えるために。

まずは、「知ること」だ。知り、向き合い、考え、動く。その繰り返しの先で、未来が少しずつでも優しい形を成していけたらいい。私は、そう思っている。

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■市子
監督:戸田彬弘
脚本:上村奈帆、戸田彬弘
撮影:春木康輔
照明:大久保礼司
録音・整音:吉方淳二
美術:塩川節子
音楽:茂野雅道
出演:杉咲花、若葉竜也、森永悠希、倉悠貴、中田青渚、石川瑠華、大浦千佳、渡辺大知、宇野祥平、中村ゆりほか
配給:ハピネットファントム・スタジオ
公式サイト:https://happinet-phantom.com/ichiko-movie/index.html

<参考>
*1:無戸籍でお困りの方へ(法務省)、民法772条により「母が元夫との離婚後300日以内に子を出産した場合、その子は元夫の子と推定される」と規定されている
*2:日本の「無戸籍者1万人」は、なぜ生まれるのか(東洋経済オンライン)

(イラスト:水彩作家yukko

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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。