【市子】「離婚後300日問題」により「いないこと」にされた子ども。川辺市子の生涯を外側から描いた物語

私自身は、戸籍を“持つ側”の人間である。ただし、ほかの面においては「事実を隠して」生きている時間のほうが長い。実父からの性虐待と、実母からの肉体的・心理的虐待により、幼少期に解離性同一性障害を患った。根治はほぼ不可能で、解離中の記憶はない。

私が背負う問題を正直に明かした場合、雇ってくれる企業はそう多くない。また、私の障害と“知られたくない過去”は、芋づる式につながっている。奇異の目で見られる覚悟なくして、私は己の過去を語れない。結果、私はすべてを隠す。普通のふりをして、一般家庭で育ってきたような顔をして、世間に紛れる。私が私の過去を公にできるのは、ペンネーム「碧月はる」でいられる時だけだ。

当然ながら、市子が抱える問題と私が抱える問題は大きく異なる。また、同じ「無戸籍児」だとしても、表出する問題は人によりさまざまだ。何に痛みを感じ、何に喜びを感じるのか。どのような感情を持ち、どのような未来を描くのか。千差万別の人生を、一概に「幸福」と「不幸」で分けるのはいささか乱暴だろう。その上で、市子が漏らした一言に込められた想いを私は想像したい。

「普通に生きていきたいだけや」

普通に生きる。その感覚を、求めてやまない。そういう半生を生きる人が、現実にも多数存在する。マイノリティの比率に、可視化されない人間の数は含まれない。

本来人を守るために存在するはずの“法律”が、人の未来を狭める。その歪みに落ちた者を振り返らず、切り離して生きていくのは容易い。だが、歪みはあちらこちらに存在する。明日落ちるのは、自分かもしれない。自力では這い上がれないほど、深い穴もある。もし落ちてしまったとしたら、誰もが一度は思うはずだ。「助けてほしい」と。それなのに、当事者に差し伸べられる腕は圧倒的に少ない。

多数の人間から見た、多角的な「川辺市子」。彼女は、いくつかの過ちを犯した。だが、市子を“悪人”と呼ぶことに私は抵抗を覚える。

川辺市子は、間違いなく存在する。それなのに「いない」ことにされた。そこからはじまった歪みは、市子のささやかな幸福を何度も奪った。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。