【アウシュヴィッツの生還者】戦争の「その後」に想いを馳せ続けること。

“生還の代償。背信のボクシング”。

そんなスキャンダラスな見出しで掲載された記事は、あっという間に世間に広まる。自分の忠告を無視され激怒したべレツは、ハリーの「読んでくれ」という頼み(ベレツは英語の読み書きができるが、ハリーはできない)を素気無く断り、レアを「ガキのころ一度ヤッただけの女だろ」と貶す。腹を立てたハリーはベレツの鼻面を殴るが、しかしベレツはそれに対しては怒らない。

ベレツはアメリカ社会に溶け込んだ。英語を覚え、職を見つけ、愛するひとと出会ったベレツにとって、アウシュヴィッツでの出来事は「過去」になりつつある。もちろんベレツだって心に傷は負っている。命懸けで自分を助けた弟に対し、負い目も引け目もある。過酷な状況下に置かれていた弟への慈しみもある。けれどもやっと手に入れた平穏を、ベレツは壊されたくないのだ。

ベレツが危惧していた通り、ハリーへの風当たりは強くなる。ユダヤ社交クラブの会員のひとりは、ハリーに対して唾を吐きかける。「ナチの仲間」「裏切り者」と非難する者まで出てきた。

彼人らの気持ちも、わからないではない。でもぼくは、逆に訊きたくなった。

“もしあなたがハリーと同じ状況に置かれていたら、同じ選択をしたんじゃないか。”

一口にユダヤ人と言っても、受けた加害は各々異なる。だれが軽かったか、だれが重かったか。だれが酷くて、だれがマシだったか。そんなの比較したって仕方がない。仕方がないけれど、せずにはいられない。そしてその差が分断を煽る。おまえはまだいいよな、と。頭ではわかっていても、感情が追いつかない。

そして受け止め方もまた、異なる。べレツのように前向きに生きようと人生を立て直す者、ハリーのようにフラッシュバックに苦しむ者。ハリーにとってアウシュヴィッツでの出来事は、「過去」じゃない。現在進行形で自分を苛む地獄なのだ。罪悪感、慙愧。そしてもし仮にまったく同じ加害だとしても、傷もまた各々で異なる。なぜならみんな、違う人間だから。ベレツとハリーのように。たとえ血を分けた兄弟であっても。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。