【アウシュヴィッツの生還者】戦争の「その後」に想いを馳せ続けること。

そんな折、ハリーのもとにレアが生きているという情報が舞い込む。悩んだ末、ハリーは行動を起こす。自らの魂の救済を求めて。そしてようやく、息子に打ち明けるのだ。アウシュヴィッツに収容されていたこと、だれにも話せなかった最大の秘密を。

悲惨な過去と折り合いを付けるだとか、地獄に差し込んだ一筋の光とか、そういう言葉でこの物語を表現したくない。たしかに生きていく上で諦めねばならないことは、だれにだって多かれ少なかれあるだろう。でもこのシーンを”希望”と肯定してしまったら、戦争を、「その後」を、肯定することになってしまうのではないだろうか。

選べない出自、信仰する宗教。そもそもの話、個人の生命を、尊厳を、抗えぬ巨大な組織的力で粉微塵に叩き潰す出来事など、言うまでもなく起こっていいわけないのだ。もうだれひとり、ハリーのような、べレツのような、レアのような、ジャンのような、アランのような、ミリアムのようなひとを、出してはいけない。

それなのに2022年、ロシアはウクライナへの侵攻を開始した。元から加害国の血も引いているけれど、生きているあいだに加害国側の人間になってしまった。けれども日本で暮らしているぼくにとってロシアは、国籍のあった韓国よりも縁を感じられない。

もちろんそんなこと関係なしに、ぼくにプーチンの愚行の責任を引き受ける義務はない。それでも、加害国にルーツを持つぼくは、どこか後ろめたい気持ちを抱えている。そしてよく考える。「その後」いったい加害国ルーツのぼくたちは、どうなってしまうのだろう。「その後」なにを感じ、どう思い、歩んでいくのだろう。ハリーのように浄化できぬ罪悪感を抱えて、この先ずっと、生きていくことになるのだろうか。

わからない。
ここで言えることは、なにひとつない。
書くべき言葉をぼくは今、持ち合わせていない。

ただそれでも、最中である現在だけでなく、「その後」になっても想いを馳せたい。馳せ続けたい。すでに出てしまったたくさんの犠牲者と、そして生存者に、祈りを捧げ続けたい。できることは限られている。だけどこの世界に生きるひとりひとりが「その後」に無頓着でいないよう、努力することは可能だ。

戦争はリアルタイムで経験した人間だけでなく、その子孫の人生にまで影響を及ぼすこと。今も影響を受け続けているぼくのような人間が、この世に大勢いること。それを心の隅に留めて生きていくことが、すべての個人の責務なのではないか。そんなふうに、最近考えている。

*ヘルツコはアメリカに渡る前、Hertzko Haftという名前だった

──

■アウシュヴィッツの生還者(原題:The Survivor)
監督:バリー・レヴィンソン
原作:アラン・スコット・ハフト
脚本:ジャスティン・ジュエル・ギルマー
撮影:ジョージ・スティール
音楽:ハンス・ジマー
出演:ベン・フォスター、ヴィッキー・クリープス、ビリー・マグヌッセン、ピーター・サースガード、ダル・ズーゾフスキー、ジョン・レグイザモ、ダニー・デヴィートほか
配給:キノフィルムズ

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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。