【東京裁判】どんな目的であろうとも、どんな意図であろうとも、「戦争」という手段を用いることは間違っている

“三人(みたり)の子 国に捧げて 哭(な)かざりし 母とふ人の 号泣を聞く(二上範子)”

本作で紹介される「昭和萬葉集」の一編である。この詩からもわかるように、戦争は「国」が起こすものだ。国民の反対意見は無視されがちで、戦争当時、「戦争反対」を掲げる者は「非国民」として周囲から迫害され、酷い拷問や差別を受けた。そういう時代がどれほどの命と尊厳を奪ったかは、言葉にするまでもないだろう。

国の中枢を担う者たちが独自に決めた戦争に巻き込まれ、命を奪われるのはいつも一般人だ。戦争当時、国の方針を取り仕切る中枢にいた人々が裁判にかけられるまで生きていた事実が、それを物語っている。戦地に赴く者、見送る者、その両者に選択権はない。拒否権のない「赤札」に万歳と手を挙げ、しかしその頬は涙で濡れていたという。その涙は、“嬉し泣き”でなければならなかった。愛する者に生きていてほしいと願う。それさえも許されない時代が再び繰り返されるということは、「東京裁判」で描かれた悪夢が再現されるということだ。それだけは、何がなんでも避けねばならない。

本作の内容は、単純な裁判記録だけにとどまらない。第二次世界大戦前後に起きた戦争や内紛の歴史、非人道的な差別による虐殺事件、それにより多くのものを奪われた人々の叫びが、白黒の映像を通して伝わってくる。大量の死人、食糧難による飢餓でまともに歩けない人の姿、爆撃により破壊される民家、原爆投下直後の広島・長崎の惨劇。正直にいえば、これらの映像は目を背けたくなるほど辛いものだ。だが、私たちは目を背けてはいけない。

戦争は、映画や漫画の世界ではなく、現実に起きた出来事だ。今もなお、世界各国では戦争や内紛が続いており、日本もその渦に巻き込まれつつある。人間は学習する生き物であるはずなのに、なぜこれほどの過ちを繰り返すのか。

東京裁判において、戦犯とされた被告が自らの無罪を主張することが、他の被告の不利につながる場面があった。同じ国に生まれ、同じ罪に問われた者同士でさえ、足を引っ張り合い、互いの関係性に軋轢を生む。その様を見ていると、人間は争いから逃れられない生き物なのかと軽い絶望を覚えた。

陸軍大将の東條英機は、「この戦争は侵略ではなく、防衛と植民地の独立を目指すものであった」と主張した。東條の証言は世界的に報道され、大きな非難を浴びた。「ハル・ノート」(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)の存在をはじめとして、第二次世界大戦の歴史は、各国の思惑により歪められている部分も多い。しかし、東條の主張には、私自身強い反発を抱いた。

1 2 3 4
S H A R E
  • URLをコピーしました!

text by

エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。