【東京裁判】どんな目的であろうとも、どんな意図であろうとも、「戦争」という手段を用いることは間違っている

裁判にあたって日本弁護団が結成されたものの、弁護団の中でも弁護方針についての意見が割れた。「国全体の弁護」と「個人の弁護」。どちらに舵を切るべきかが定まらなかった。準備期間があまりに短かったこともあり、日本弁護団は数ヶ月の猶予を申し出た。しかし、法廷は1週間の休廷を言い渡したのみで、それ以上の猶予は許されなかった。

日本弁護団は、「これまで戦争行為自体を『犯罪』とみなしていなかったにも関わらず、後になって法を作り、これを裁くことは違法である」と主張。だが、その主張は「侵略戦争におけるおびただしい被害者と資源の損失を引き起こした戦犯を罰しないわけにはいかない」として退けられた。

印象的だったのは、ジョージ・A・ファーネス弁護人の言葉である。

「真に公正な裁判を行うのならば、戦争に関係ない中立国の代表によって行われるべきで、勝者による敗者の裁判は決して公正ではありえない」

また、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人も、以下のように述べている。

「私は、原爆を広島に投下した者の名前を挙げることができる。この投下を計画し、実行を命じ、それを黙認した者がいる。しかし、その者たちは戦犯として裁判にかけられていない。それどころか、その人たちが本件を裁いている」

彼らは、法の公平を主張し、東京裁判の根本的な欠陥を追求した。だが、この主張についても言葉少なに却下され、裁判は有無を言わさず決行された。歴史の闇が深いと感じたのは、このくだりが日本で発行された記録には残されていない点である。私自身、授業でこのような事実があったことを学んだ記憶はない。むしろ、「日本がすべて悪い」と言わんばかりの主張だけを繰り返し擦り込まれた記憶がある。

第二次世界大戦のみならず、日本が開戦の口火を切って引き起こした惨劇の数々は、決して許されるものではない。よって、「日本は悪くない」などと言う気はさらさらない。だが同時に、「日本だけが悪い」と言い切ることにも抵抗を覚える。少なくとも、原爆投下が「正しい選択だった」とは言いたくないし、思いたくない。そして、「日本」と一括りにして罰することにも違和感を禁じ得ない。開戦を決めた者、非人道的な命令を下した者はともかく、その命に従う以外に生きる術を持たなかった人々は、果たして「罪人」だろうか。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。