母という呪縛
この映画には、もう一人母親が出てくる。
作品(恐らく小説か脚本)のためにロランスの裁判を傍聴する若き作家ラマである。
ラマ自身も黒人であり、幼少期から母親との関係がうまくいっていないことが暗示される。妊娠したことをパートナーに伝えていないことなど、ロランスと共通点の多い女性として描かれている。
劇中、ラマが話しているところはほとんど描かれない。どこにいても、ずっと緊張しているような、本音を隠すような、不安そうな、硬い表情をしている。何を考えているか、どう思っているのか、よくわからない。
母親になることに対して、ラマがどのように思っているかもわからない。自身が妊娠していることを知りながらビールを飲むシーンがあり、受け入れていないようにも感じるが、本当のところはわからない(妊娠期のアルコール摂取の是非に関しては文化的な影響もあるように思う)。
ただ、彼女がロランスの裁判を見ながら、母になることへの不安を深めていくことだけは伝わってくる。しかし、その不安がどこからきているのかははっきりとはわからない。彼女は語らない。ロランスと同様に、ラマの物語も不在である。彼女も誰からも理解できない存在として描かれている。
親しい人から妊娠の報告を受けたとき、僕はほとんど反射的に「おめでとう」と返している。それは、子供ができること、母親になることはいいことで、祝うべきことだと僕が思っているからであり、相手もそのように思っている、という前提を持っているからだ。
哲学者エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』の中で以下のように書いている。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。(中略)この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提の上に立っている。
この言葉は多くの人を救ってきた。僕もその一人だ。一方で、彼は同著の中で親子の愛について以下のように語っている。
母の愛はその本質からして無条件である。母親が赤ん坊を愛するのは、それが彼女の子供だからであって、その子が何かの条件を満たしているとか、何かの特性の期待に応えているからではない。
母親は私たちが生まれてきた家である、自然であり、大地であり、大洋だ。父親はそうした自然の故郷ではない。
父親は自然界を表しているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表している。子供を教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。
フロムは親子の愛を技術だとは言わなかった。知力や努力が必要なものとは言わず、無条件のもので、自然であり、大地であり、大洋だといった。