【サントメール ある被告】ありふれた呪縛

物語の不在

人を理解するとはどういうことだろうか。

先日、ある人が「理解とは、他者の合理性を把握すること」だと言っていた。他者がどのような傾向に基づいて思考するか、どのような因果を紐づけて行動するか。その傾向や因果関係を生み出している、その人が持つ固有の「物語」を把握することこそが理解なのだと。

では、物語が見いだせない場合はどうすればいいのだろうか。

ロランスの表情から感情を読み取ることはできない。こどもを殺したことを悔いているようには見えない。しかし、「最初の激痛とともに娘を感じた。誕生の瞬間は感激した。愛おしかった」とも語っている。

ロランスの言葉は揺れる。一見論理的に話しているように見えるが、当初の証言と法廷での発言は食い違っていて一貫性がない。しかし、意図的に嘘をついているようには見えない。

ロランスは自分が殺すことになったのは、何者かによる呪術のせいだとも口にする。実際に呪術師に相談をしていたと話す。しかし、通話記録や呪術師に依頼をした記録は見つからない。

そもそも、ロランスの中に彼女固有の物語は存在したのだろうか。

他者から見て納得できるような、合理的で、論理的で、一貫性のある物語に基づいて、ロランスは行動していたのだろうか。

愛しているから殺す、愛していないから殺す。浮気されたから殺す、邪魔になったから殺す。動機ではなく、僕らは因果関係の構造として事象を理解する。しかし、もしこの構造自体が存在していなかったとしたら。

裁判が進行し、より多くの情報が開示されても、依然として物語は不在のままである。「なぜロランスはわが子を殺したのか」という問いと僕らの位置は変わらない。ただただ問いの前に立ち尽くすしかない。

この映画は「実際の裁判記録をそのままセリフに使用する」という手法で作られている。つまり、この理解のできなさ、物語の不在はありのままの現実である。

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S H A R E
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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!