【カムイのうた】簒奪者の子孫が語るには

教科書と観光客

強く感じたことのもう一つは、この映画全体に漂う欠落だ。敢えて、上述にストーリーを記載したのは、その欠落について触れたいからだ。

誤解を恐れずに言えば、この作品は教科書のような映画なのだ。

史実に基づいたストーリーは既視感があり、予測可能なことしか起きない。それぞれのキャラクターの感情は伝わってくるが、平面的で、魅力的には思えない。ユーカラを歌ったり、ムックリという伝統楽器を演奏したりするシーンが魅力的というよりは、取ってつけたように見えたりもする。

アイヌ文化に対する配慮とリスペクトはスクリーン越しにも伝わってくる。でも、何かが足りない。引き込まれない。「アイヌ文化と差別に関する映像コンテンツを見た」という距離感になってしまう。自分が観客ではなく、観光客になったような感覚。

何が足りないのだろうとずっと考えて、当事者性という言葉にたどり着いた。

当事者性の欠落とキャラクター化

ここでいう当事者性には、2つの側面がある。

1つには、アイヌ自身の当事者性だ。

もちろん、アイヌ当事者の監修が入っている作品なので、アイヌの暮らしや文化を適切な形で描けているのだと思う。しかし、ここで取り上げたいのは個々の描写ではなく、全体を通じた捉え方だ。僕はアイヌが「自然を敬い、独自の信仰と文化を持つ素朴な民族」としてキャラクター化されているように感じた。

例えば、本作品にはアイヌの悪人が登場しない。意地悪をするような人、性格が悪い人は登場しない。それに対し、和人の中には、話を聴かない警察官や自分勝手な研究者というわかりやすい悪人が登場し、テルの支援者である兼田は善人として描かれる。つまり、アイヌは本質的な善というわけだ。こうした単純な善悪二元論でアイヌを描き出すことが、逆にアイヌの当事者性を奪っているように思えるのだ。

決して、アイヌを差別の被害者として描くこと自体を否定したいわけではない。

アイヌを被害者としてのみ捉えて描くというスタンスをとった瞬間に、アイヌはその善性という一側面を強調されたキャラクターになってしまう。アイヌが民族として持つ複雑さ、多面性、ディテールが描かれなくなってしまう。しかし、その描かれなくなった部分にこそ、当事者性が多分に含まれているのではないか。和人がスクリーニングした上澄みの成分を見て、これがアイヌという民族なのだと思っていないだろうか。僕は観ていて不安になった。

1 2 3 4 5
S H A R E
  • URLをコピーしました!

text by

1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!