【658km、陽子の旅】なりふり構わず生きているか?

優しい老夫婦に助けられた陽子は、岩手の道の駅までたどり着く。父の出棺が予定されている時間まで、あとわずか。必死にヒッチハイクの交渉をする。その姿は、これまでとはまるで別人。自分で描いたプラカードを掲げ、「乗せてってよー!」と絶叫する。人々から気味悪がられようが、怒鳴られようが、懇願して歩く。最後に父の手を握りたい。ただそれだけの思いで。

彼女はこれまで、なりふり構わず生きたことがなかったのではないか。夢を諦めたうえに、インターネットの発達やコロナ禍によって、人に会わずとも家で何でも済ませられるようになったことも気力を奪ったのだろう。しかし、ぬくぬくした引きこもり生活から外界にひきずり出され、インターネットの庇護も受けられなくなり、なにより父のために奔走することでサバイバルする力が目覚めたのだ。

どんなに人生に躓いても、誰かを想い無我夢中になることで、人は生きる力を取り戻す。一心不乱の陽子の姿は、そう教えてくれるように見えた。

一人の少年が「うちの車で」と申し出てくれる。人から素性を訊かれても黙り込んでいた彼女が自ら「個人的な話ですが」と、運転席の少年の父親にこれまでの経緯や人生、そして乗せてくれた人々への感謝を真摯に語る。この長回しの場面が秀逸。

菊池凜子の顔をアップで撮り続けることで、彼女の演技力と相まって、まるで観客に語りかけてくるよう。言葉の一つひとつが胸に沁みて、涙がこみ上げてきた。

ラスト、実家にたどり着いたシーンで初めて、タイトル「658㎞、陽子」が流れる。「よく頑張ったね」という思いと共に、終わりではなく、これから彼女の新しい人生の旅が始まることを強く印象付けられた。658㎞の先にも、困難は待ち受けているだろう。でも、この距離を乗り越えたあなたなら、きっと今より輝いた日々を送れるよ。そう陽子に言葉を送りたくなった。

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■658km、陽子の旅
監督:熊切和嘉
脚本:室井孝介、浪子想
撮影:小林拓
照明:赤塚洋介
美術・装飾・持道具:柳芽似
録音:吉田憲義
編集:堀善介
衣装:宮本茉莉
音楽:ジム・オルーク
エンディングテーマ:ジム・オルーク、石橋英子「Nothing As」
POSTER PHOTOGLAPHY:長島有里枝
出演:菊地凛子、竹原ピストル、黒沢あすか、見上愛、浜野謙太、仁村紗和、篠原篤、吉澤健、風吹ジュン、オダギリジョーほか
配給:カルチュア・パブリッシャーズ

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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元コピーライターで、いまは新聞の地域面編集をしています。映画好きで「犬神家の一族」のファン。このスケキヨとのツーショットは宝物です。