【658km、陽子の旅】なりふり構わず生きているか?

しかし、陽子はヒッチハイクでさまざまな人々と出会うことで徐々に変わっていく。車の中は密室だ。自ずと同乗者との間に親密な空気が生まれる。他人と向き合うことは、自分を見つめ直すことにつながるのだ。

さらに印象的なのが、トイレのシーンである。陽子は途中で降ろされた人気のないパーキングエリアで、自分と同じようにヒッチハイクしている少女と出会う。一人で夜の公衆トイレに行くのが怖いと言う少女に懇願されて、彼女が用を足し終わるまで、扉の前で待たされ、ずっと話しかけられる。迷惑顔の陽子だったが、少女との距離が縮まり、やっと来た車を彼女に譲る優しさを見せた。

車が密室なら、トイレは究極の個室だ。陽子は一人で話す練習をしたこのプライベートな空間を他人と共有することで(個室に一緒に入ったわけではないにしても)、彼女の殻に穴が開けられたのだ。少女は自分のマフラーを陽子の首に巻いて去っていく。それは彼女の心も温めたに違いない。

だが、良い人ばかりではない。震災のルポを書いていると言うライターの男には、目的地まで連れて行く代わりに性交を求められ、仕方なく応じてしまう。男のセリフから、陽子は以前にも同じようなことをした経験があるらしい。

事情はあるにせよ、このあたりに、保身が強い反面、自暴自棄に生きてきた陽子の人生が透けて見える。

結局男に約束を破られ、泣きながらホテルを飛び出す。夜の浜辺をさまよっていると、父親の幻影が現れて殴られる。

父親の幻影は、陽子の分身ともいえる。父親に会わなかったのは、夢を叶えられなったバツの悪さや見栄からだろう。挫折した自分を消化できなかったために、父親とも対峙できなかったのだ。

浜辺に倒れ込んだ陽子は、夜が明け、寄せてきた波に起こされる。目の前に広がっていたのは、震災で多くの人の命を奪った福島の海だった。ぼんやり海を見つめて、泣き笑いする陽子。大きなものを前にして、ちっぽけで情けない自分自身を笑い飛ばすような、吹っ切れた強さを感じた。震災の海は死を表しているのかもしれない。陽子は父親の死に対して「実感湧かないよ」とつぶやいた。死の意識が希薄だということは、生の意識が希薄だということでもある。悲惨な体験をしてドン底に突き落とされ、暗い海の淵で覚醒した彼女は、一度死に近づいたことで、弱々しくも再生したのだろう。その後、父親の幻影は現れなくなる。

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S H A R E
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元コピーライターで、いまは新聞の地域面編集をしています。映画好きで「犬神家の一族」のファン。このスケキヨとのツーショットは宝物です。