「いい映画」に乗って旅をする。

続いては、「だが、情熱はある」(演出:狩山俊輔と伊藤彰記)。

日本テレビのドラマで、オードリーの若林正恭を髙橋海人、南海キャンディーズの山里亮太を森本慎太郎が演じた。興味本位で初回を覗いたら、あれよあれよと最終回まで観てしまった。

テーマは、どうやら情熱らしい。情熱があれば夢は叶う……とでも言いたいのだろうか。そんなわけはない。情熱があっても成功するとは限らない。世の中はゼロサムだと言いたいわけではないけれど、情熱があっても潰れてしまう人間はいる。潰れないにせよ、「こんな人生で良かったのだろうか」と後悔する人間だっているはずだ。高齢独身男性の自殺率を見れば、情熱が枯れてしまった後の惨状が、他人事でないと理解できる。独身男性に限ったことではない、情熱とは、いわば冷静な思考を「トばす」ドラッグのようなものではないだろうか。

ただ、このドラマの「なんだかんだ観てしまった」という、説明し難い魅力のようなものがあったのは事実だ。(僕が「オードリーのオールナイトニッポン」のヘビーリスナーであることを除いたとしても)

それは「何者かになりたい」という思いだろう。朝井リョウ『何者』で、何者かになりたい / なりたかった若者たちの行方が臨場感たっぷりに描かれていたが、結局それは情熱と相性が合うとは限らないのだ。『何者』の二宮拓人は裏アカウントで友人をディスり続け、小早川理香は友人の就活の失敗を願うような行為を繰り返していた。「何者かになりたい」彼らの情熱は、歪み、捻れ、それは残酷なほど醜悪だった。

若林正恭と山里亮太は、たまたまテレビの世界で大成することができた。それは才能と努力の賜物だろう。あれだけの成功体験を、ドラマを通じて追走することが苦にならなかったのは、「何者かになりたい」という人間像にすっぽりと共感していたからだろう。

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上記2作品は「共感」「感情移入」という言葉を載せたが、「茶飲友達」(監督:外山文治)の場合、主人公にまるで共感を寄せることはできなかった。

岡本玲が演じた佐々木マナは、自分の家族と反りが合わず、反発するように「ファミリー」という形で、組織(会社)をつくった。それは高齢者専門の売春クラブという、問答無用で犯罪斡旋を促す事業なのだが、なぜか心に残り続ける作品だった。

まじで、ひとつたりとも、共感できる点がなかった。

どんな事情があろうとも、犯罪行為は許されない。「孤独な老人がセックスするのを仲介するだけじゃん」なんてカジュアルな意見も飛んできそうだが、手段が間違っている。確かに高齢者の孤独は社会問題になっている。昨年は「PLAN 75」という映画が話題になったが、足元では志あるアントレプレナーが高齢者支援の事業に取り組んでいる。まだ不十分な点もあるだろう。しかし「茶飲友達」で描かれているような犯罪行為を手段として選ぶマナに同情の余地はないだろう。

でも、僕が見落としていたのは、彼らの「顔」だった。

犯罪行為を企てる者、加担する者、黙って共犯関係に成り下がる者……。彼らにはそれぞれの「顔」がある。それは「対峙」にも通ずる考え方であり、加害行為に加担する者について、ある種の寛容さを失っていることで得られなかった想像力というものなのではないだろうか。

犯罪行為を容認するわけではない。

しかし、彼らの「顔」を眺めることで気付く問いがある。「どうして?」「どうしてそんな犯罪に手を染めたの?」。それなしに正義を論じようとすることが、社会を分断に追い込んでしまうのではないだろうか。

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S H A R E
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株式会社TOITOITOの代表です。編集&執筆が仕事。Webサイト「ふつうごと」も運営しています。