【郊外の鳥たち】都市開発が搾取するもの、社会と個人の連続性

少年ハオの時空では、仲間のひとりである太っちょがある日とつぜん学校に来なくなってしまう。「家を知っている」というキツネの案内で、ハオたちは太っちょの自宅を目指すこととなる。

かの有名な「スタンド・バイ・ミー」的展開を辿るが、草をかき分け、線路を歩き、瓦礫を進む中で、アリが転倒し頭を怪我する。アリを連れて手当てをするため、付き添いのカブと共にふたりは旅から離脱する。壁に突き当たると、いちばん背の高いじいさんがみんなを越えさせるために背中や肩を貸す。そのため自力で壁を越えられなかった彼もまた、道中ではぐれる。そして黒炭は、踏切の前で双眼鏡越しにその時代ではまだ存在しているはずのない新幹線を目撃してしまう。首を傾げたその直後、彼も消え去る。

損傷、犠牲、そして時空のひずみ。強引な開発で地盤が脆くなった都市を目撃した途端、次々と消える子どもたち。そういえば太っちょは下校中に友人たちと別れる際、ひとりひとりをハグしていた。中国人の知人に質問してみたが、中国に挨拶でハグをする習慣はないらしい。太っちょは本能で、なにかを悟っていたのだろうか。

ラストシーン、青年ハオよりもいくぶん若く見える、第3の時空と思しきハオが登場する。森の中で友人と“郊外の鳥”を探すハオは、双眼鏡越しに少年ハオの時空を目撃する。それは青年ハオが語った、幸福でノスタルジックな思い出だった。ハオは森の中で友人と寝転び、目を瞑って眠りに落ちる。安心しきったようなその顔には、心なしかうっすらと笑みが浮かんでいた。

郊外の鳥というのは、本来はめったに見かけることのない青い鳥のことを指すらしい。しかしチウ・ション監督はこの鳥を、「森で暮らすわけでも都市に暮らすわけでもなく、不安を抱えながら絶えず飛び回っている鳥」と再定義していた。ここから鑑みるに“郊外の鳥たち”は、ハオたちを指すと考えるのが適当であろう。

国家の発展を目指し、環境を破壊し、強引に開発されゆく都市は、そこを故郷とする者の寄る方としての役割を消失する。“過ぎ去った”と表記される過去は、しかしながら本当は、現在形で語られるべき時空なのではないか。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。