【52ヘルツのクジラたち】虐待、ヤングケアラー、LGBTQ当事者の苦悩。現実世界の「52ヘルツの声」にも耳を傾けて

貴瑚がヤングケアラーの状況から抜け出せたのは、一時的にでも自宅を離れ、家族以外の人間と交流を持てたからであろう。親による虐待や搾取は、子どもを洗脳するところからはじまる。どんなに理不尽でも、どんなに間違っていても、「自分たちこそが正しくて、それ以外の考えは悪」なのだと親は子どもに叩き込む。私の両親もそうだった。彼らは自分たちの暴力を正当化し、私の声を塞いだ。すでに小学生の頃には、私は自分の声が周囲には届かないことを自覚していた。

日常的に痛みを与えられ続けると、諦めるのが上手くなる。中には自分の意識を切り離し、痛覚を鈍麻させる術を身につける人もいる。そうしなければ生きていけない。そんな過酷な状況を生きる子どもはレアケースだと、多くの人が思っているだろう。だが、貴瑚のような境遇を生きる子どもは現実世界にもあふれている。その子たちの多くは、声を発しない。諦めているからだ。もしくは怯えているからだ。声を漏らしたことが知られれば、さらなる責め苦を負わされる。原作の中で描かれる、小学生時代の貴瑚のように。

義父の介護と母親の圧力から解放された貴瑚は、彼女を救ってくれた友人の美晴とアンさんと共に新たな人生への一歩を踏み出す。しかし、その先で貴瑚はさらなる苦悩と喪失を体験する。耐えがたい痛みの先で貴瑚は新たな出会いを得るが、その出会いは貴瑚の人生をも大きく変えるものだった。

貴瑚が出会ったのは、体に無数の痣を持ち、声を発することができない少年であった。名前は「愛(いとし)」。名前と彼の境遇のギャップが、あまりにも痛々しい。愛の母親は、息子のことを「ムシ」と呼んだ。「ムシ」とは、文字通り「虫」のことである。我が子をそんな呼び名で呼ぶ母親にも親権がある。法律は、必ずしも弱者の味方ではない。

愛が生まれてはじめて口にした言葉は、「ママ」ではなく育ての親の「ちーちゃん(千穂ちゃん)」だった。そのことに腹を立てた母親が、愛の舌に煙草の火を押し付けた。それ以来、愛は声を失った。奪われた、といったほうが正しい。親は、子どもよりあらゆる意味で強い。体格、腕力、経済力、知力。幼子をはるかに上回るそれらの力は、本来、子を守るために使うものだ。だが、強い力を嗜虐のために使う大人は一定数いる。

先に述べた「家族は時に呪いになる」という言葉を貴瑚に伝えたのは、アンさんだった。アンさんもまた、家族が呪いとなっていたうちの一人だった。アンさんの母親は、アンさんを心から愛していた。それゆえの、“呪い”だった。暴力は必ずしもわかりやすい形をしていない。愛が受けた暴力と、アンさんが受けた暴力は別のものだ。だが、どちらも相手の心を壊したことに変わりはない。「愛情だった」という言い訳は、免罪符にはなり得ない。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。