【帰らない日曜日】「書くこと」でしか魂は癒されなかった。

彼女が〈あの日〉についての小説を書き上げたのは、晩年になってからのこと。1980年代、著名な小説家として活躍するジェーンは、ようやっと作品を完成させる。ここまで時間がかかったのは、おそらくだがドナルドとの蜜月も描いたからだろう。その小説が大きな賞を獲った日、朝から大勢の記者たちがジェーンの自宅に押し寄せる。受賞の喜びを聞きたがる記者に、ジェーンはすげなく「書くしかなかったの」と言い放つ。そして記者たちの向こう側に、ポールに恋した若き日の自らの幻影を見つけて、微笑む。彼女は「素晴らしい日々だった」とコメントして、玄関を閉めた。

かつてポールは、ドナルドは、ジェーンに同じことを求めた。書き続けること。ジェーンは「傑作を書くのに私の男は死んでいくの」と皮肉っていたが、彼女を心から愛したふたりは、「書くこと」だけがジェーンを真に救うと知っていた。身ひとつしか持たぬジェーンにできるのは、「書くこと」だけだった。悲しみも、怒りも、悔しさも、喜びも、〈あの日〉に限らず描かれていない彼女の人生に起きたさまざまな出来事を昇華するには、「書くこと」が必須だったのだ。すくなくともジェーンにとっては。どれだけ辛い作業であろうと、それこそが彼女の魂を慰撫し、救い上げてくれる唯一の方法だった。

幼いころからぼくは、無性に「書くこと」を欲していた。だれにも打ち明けられぬ胸のうちを、ひたすらノートに書きつけていた。ガラケーを持つと、ブログでそれを全世界に公開するようになった。高校生になってお年玉やバイト代で中古のノートパソコンを手に入れてからは、「書くこと」に対しますます貪欲になっていった。そして今、「書くこと」で飯を食っている。

ぼくの書き付ける記憶は、ジェーンがたどり着いた答えのように「素晴らしい日々」にはなり得ないだろう。それらはなにひとつとして経験すべきではなかったし、起きてはならないことだった。ぼくの人生に不要なものだった。それでも、「書くこと」だけがぼくの魂を慰撫してくれる。文章にすることで、昇華される。もちろん素晴らしい思い出たちも。ジェーンと同じように。

31歳のぼくの顔には、まだ皺がない。せいぜいシミ予備軍のようなものが、うっすら浮き出ているだけだ。いつかジェーンのような美しい皺が、この顔にも刻まれるといい。その皺を見るたび、きっとぼくは幸福になる。

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■帰らない日曜日(原題:Mothering Sunday)
監督:エヴァ・ユッソン
原作:グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』
プロデューサー:エリザベス・カールセン、スティーヴン・ウーリー
脚本:アリス・バーチ
音楽:モーガン・キビー
衣装:サンディ・パウエル
ヘア&メイクアップ:ナディア・ステイシー
出演:オデッサ・ヤング、ジョシュ・オコナー、コリン・ファース、オリヴィア・コールマン、グレンダ・ジャクソン、ソープ・ディリスほか
配給:松竹

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。