黒人はNG、アイヌはOK
アイヌの当事者性をどう作品に込めるか。いろいろな手段があると思うが、この作品に関しては、アイヌ当事者を起用することが必要だったのではないだろうか。
「当事者と同じ属性の人しか、当事者のことは理解できず、表現することはできない」ということではないのだ。そんなことを言い出したら、すべての創作は成立しなくなる。女性作家がBL作品を書く、侍でない人が時代小説を書く、海賊未経験の漫画家が海賊ものの漫画作品を書く。想像の翼を広げて、どんな作品も作ることができる。誰が何をどんな形で表現してもいい。
しかしながら、作品が扱うテーマ(今回の場合はアイヌという実在の民族の歴史と差別)と表現方法(今回の場合は実写映画)によっては、当事者性を帯びた人しか触れられない領域があるのも事実だ。
例えば、黒人奴隷の歴史と差別を描く映画で、黒人役を白人が演じたらどうだろうか。その役者がどんなに表現力があったとしても、なぜ「あえて」黒人ではなく、白人を起用したのか、という問いが付きまとう。その問いは表現の歪さや不誠実さと言えるかもしれない。観客は戸惑うはずだ。黒人の観客は怒りだすだろう。社会問題になってもおかしくない。
しかし、この作品ではアイヌの歴史と差別を描く映画で、アイヌ役を和人が演じているのだ。なぜ「あえて」アイヌではなく、和人を起用したのか、という批判はされておらず、社会問題にもなっていない。それは、長年に渡って和人がアイヌの当事者性を不可視化してきたからに他ならない。
どのテーマを誰が演じるのか。何がOKで、何がNGなのか。その線引きは極めて曖昧だ。時代によっても変わるだろう。それはわかっている。でも、本来ならば、このテーマであれば、アイヌを起用して当事者性をまとわせるべきだったと僕は思う。逆説的だが、この映画を通じてアイヌのことを少しだけ知ったからこそ、そう思うのだ。
安全なエンタメ
もう一つの当事者性は、和人である観客自身だ。
先述の通り、この映画では、和人のアイヌに対する差別が随所で描かれている。その描写は痛ましく、見ていて辛いシーンも少なくない。
「当時の和人たちは酷すぎる」「やっぱり差別は許されない」
そんな思いが過ぎる。しかし、アイヌへの無理解と差別が続く現在と映画の舞台である過去を切り離して、客観的に見ているような感覚に陥るのだ。時代劇を見ているような感覚と言えばいいだろうか。どこか他人事というか、自分と関係ない世界で起きているように感じた。時間軸だけでなく、画面の中に映る和人と自分が同じ民族のように感じられなかった。ひどい感想だが、エンタテイメント作品を観客として鑑賞した、というのが率直な気持ちだった。
アイヌ民族らに対してSNSで差別的投稿をし、「人権侵犯の事実があった」と法務局に認定されても国会議員を続けられるのが、現代の日本である。かの議員は会見での謝罪後にこうも語った。「もしもどなたも傷ついていないのであれば、謝罪する必要はないんじゃないかと思う」。
彼女が民意を得て国会議員を続けていること自体が、和人のアイヌへの差別が今も続いていることの証左だ。和人の一人として、僕は社会が変わるべきだと思う。だから、この作品にはもっと突きつけてほしかった。観ているあなたは和人なのだと。スクリーンの中で教科書的な物語としてきれいに完結するのではなく、スクリーンの外に腕を伸ばして、観客の喉元を掴みかかってほしかった。和人であることを、観光客ではなく簒奪の当事者であることを、その責任を突きつけてほしかった。内省する機会を提示してほしかった。でも、そういうものはなかった。観客を傷つけない、安全な作品だった。
観客に対して迫るものがなかったことが、社会が変わるのがまだ先だと示しているようで、僕は暗い気持ちになった。