【天間荘の三姉妹】この世界は、案外捨てたもんじゃない──もしも私が、生死の選択を迫られたなら

当たり前だが、私たちは生きている。そして、大半の人は「明日はくるもの」だと思っている。だから悩むし、大事なことを先延ばしにするし、愛する人に傲慢な態度を取る。その挙げ句、死の間際に後悔するのだ。ああすればよかった、こうすればよかった、と。こうして文字にすると愚かに感じるが、多くの人はそんなものだろう。「明日死ぬかもしれない」と、毎日そんな心持ちで生きられるほど、人は強くない。

冒頭に、私はこう書いた。“時々、唐突に「消えたい」と思う。それは、「死にたい」とは少し違う感覚だ。”

これが「選べる立場にある者だけに許された葛藤」であることを、私はわかっていたつもりだった。しかし、あくまでも“つもり”でしかなかったことを、本作を通して突きつけられた。

生きたくても生きられない。死にたいのに死にきれない。どちらがより辛いかなんて、本来誰にも決められない。ただ、これまでの人生において、極限の土壇場を経験してきた者として、ひとつだけ言える。いざとなると、人は「生きよう」とするのだ。それはもう、生き物としての本能なのだろう。他の人がどうかは知らない。でも、私はそうだった。私はいつだって、最後の最後には「生きる」選択をした。だから今、こうして文章を書いている。

登場人物のほとんどが「死人である」ため、天間荘で繰り広げられるやり取りは、いちいちシュールで妙な説得力があった。もし、身近な誰かに希死念慮の苦しみを吐露した際、「生きたくても生きられない人もいるのに」などと言われたら、私はきっと、その言葉を受け入れられない。私の痛みが、苦しみが、お前なんかにわかってたまるか。きっと、そんなふうに身構えてしまう。しかし、不思議なもので、作品を通してなら受け取れる言葉もある。

優那が、たまえに言った。
「半分は死んでるんだよ、私たち」

たまえは、こう返した。
「半分死んでるってことは、半分は生きてるってことだよ」

生か、死か。どちらに目を向けるかは、本人にしか決められない。ただ、未来への選択権を持つ者は、自己が持つ優位性から目を逸らすことはできない。続けるのか、終わらせるのか。たまえも、優那も、葛藤したのち、自分自身で最後の決断を下した。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。