【窓辺にて】「手放す」行為の先にある愛すべき余白と、人生のおかしみ、ままならなさについて

osanai 窓辺にて

フリーライターの市川茂巳は、高校生作家・久保留亜の小説『ラ・フランス』に惹かれる。妻が浮気をしていたのに、それほどショックを受けていなかった市川の、自らを省みる旅が始まった。
監督、脚本を手掛けたのは「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉。主演は稲垣吾郎。中村ゆり、玉城ティナ、若葉竜也が脇を固める。

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昔ながらの喫茶店で、窓辺の淡い光を浴びながら、読書にいそしむ。稲垣吾郎演じる「窓辺にて」の主人公・市川茂巳は、そんなシーンがよく似合う人物だ。感情的になることはなく、冷静で物静か。映画冒頭のこの情景は美しく自然で、まるで一枚の絵画のようであった。

市川は、とある文学賞授賞式の取材に赴き、高校生作家・久保留亜と出会う。質問の端々から、市川が自分の小説を熟読していることに気づいた留亜は、授賞式後、個室に市川を呼び出して思いを告げる。

「きちんと読んでいてくれて、嬉しかったです。この会場に、どれぐらい読んでくれている人がいるのかなぁと思っていたので」

この日を境に、市川と留亜の不思議で穏やかな交流がはじまる。市川には誰にも言えない悩みがあり、留亜もまた、自身の複雑で繊細な感情を持て余していた。そんな二人が、喫茶店の窓辺でフルーツパフェを食べながら語り合うシーンは、哲学的でありながら、観る者をくすりと笑わせてくれるユーモアも含まれていた。

「理解って、怖いから。誰かを理解したって思うから、失望するわけで」
喫茶店でそう言った市川に、留亜はすかさず反論する。
「私はそうは思わない。裏切られても傷ついても、理解したいし、されたい」

身近にいる誰かを「理解している」と思えた瞬間、私たちはその関係に胡座をかいてしまいがちだ。理解しているから大丈夫。理解されているから大丈夫。そう思っていたはずが、いざ蓋を開けてみたら何ひとつ分かりあえていなかった……なんてことは珍しくない。

裏切られても傷ついても、理解したいし、されたい。

そう思える留亜は、強い。私はこれまでの経験を通して、ずいぶんと臆病になってしまった。

人の感情は、容易にひっくり返る。愛は憎しみに、やさしさは檻に、信頼は依存に。裏返った感情は、再度ひっくり返ることはほとんどない。そして人は、憎い相手には、ためらいなくひどくなれる。だったらはじめから、一定の距離を保って接したほうが、傷つく確率は少なくて済む。

市川には、編集者として働く妻・紗衣がいる。そして、紗衣は自身が担当する小説家の荒川円と、長い間浮気をしていた。しかし、市川の悩みは、「妻が浮気をしていること」ではなかった。「妻の浮気を知っても、強い怒りや悲しみが湧かないこと」が、彼の悩みだった。

私にも、現在進行形で愛する人がいる。もしも彼が自分以外の誰かと浮気をしていたら、私ならどうするだろう。本人の前で泣きわめくだろうか。怒り狂うだろうか。それとも、淡々と別れを告げるだろうか。

妻の浮気を知っても怒りが湧かない──それは「愛情がない」ということなのでは、と思ってしまう人も中にはいるだろう。しかし、私個人としては、ほかの可能性を想像した。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。