【東京2020オリンピック SIDE:B】動機なき仕事に、同情することはできない

では、河瀬にとって「東京2020オリンピック SIDE:B」を手掛ける動機は何だったのだろうか。僕は推察するに、おそらく河瀬は、最後までもっともらしい動機を見出すことができなかったのではないか。

映画の公式パンフレットに掲載されている河瀬のインタビュー。国際オリンピック委員会会長のバッハとデモ参加者のやりとりについて、河瀬はこんなふうに語っている。

コロナ禍によって自分自身のスペースを作れない不安や恐怖があって、その矛先をわかりやすい誰かのせいにすることで解消しようとしていたんじゃないかと。攻撃対象を見つけることは簡単ですけれど、私は、もっとその先に行きたいという感覚にとらわれました。だから東京都庁前でオリンピック中止を叫ぶ女性に、バッハ会長が近寄っていく場面がありますが、あそこで彼は「(女性が持っている)マイクロフォンを下げてください」と言うんです。バッハ会長としてはマイクロフォンを使って怒鳴るのではなく、対話をしましょうと歩み寄るんですが、感情的になっている女性はそれをしない。あの時お互いがオリンピックの何に反対で、どうすれば一緒に物事を考えることができるのかを話し合えれば、その先に行けた気がするんです。そうなれば奇跡の一瞬になったと想います。

(映画「東京2020オリンピック SIDE:B」公式パンフレットP29〜30より引用)

これが仮に河瀬の「本音」だったとして、さすがに一方的な願いのように感じるのは僕だけではないはずだ。メディアが大挙している中、国賓扱いのバッハと一市民がまともに対峙できるわけがない。(それを知った上で、バッハも意図的に声を掛けたはずだ)

そもそも「対話」というが、河瀬は、そんな弱い立場の市民たちとどれだけ対話を重ねたのだろうか。本作は東京五輪の「事実」と「真実」を描く作品だと喧伝されている。だが「事実」と「真実」を、オリンピックサイドから描くことは不可能だ。実際に「真実」を描く努力をしていたのならば、件の「五輪とカネ」に関する問題も早期に明るみになっていただろう。

もし河瀬が本当にオリンピックの「事実」と「真実」を撮りたかったのなら、オリンピックのプロパガンダとしての立場を捨てなければならなかったはずだ。

あくまで「雇われた仕事」であり、そのやっつけ感が、最後の最後まで露骨に反映されたのが、この作品である。映画の公式パンフレットの最終ページを見てほしい。そこに刻まれたスタッフロールの文字は小さく、しかも英字で書かれている。

「おれがこの作品に関わったことを、なるべく目立たないようにしてくれ」という悲鳴さえ聞こえてくるような。穿った見方だろうか。

*

最後に忘れてはならない点を付記する。

河瀬は、東日本大震災の映像を扱った。唐突に流れた「あの」映像は、直接の被災者でない僕でさえ、辛い記憶が蘇るものだった。映画館の大きなスクリーンで、配慮なく「あの」映像が流されたことを、僕は強く非難しなければならないだろう。

河瀬は、「この映画を100年後の人類に届けることが一番のコンセプト」と語っている。だが、本当に向き合うべきは、「いま」だったのではないか。「いま」に誠実に向き合えないクリエイティブが、100年先に信頼されるわけがない。

河瀬は「いま」にそっぽを向かれた。同情の余地はない。

──

■東京2020オリンピック SIDE:B
監督:河瀬直美
エグゼクティブ・プロデューサー:木下直哉
プロデューサー:武部由実子、小林住彦
配給:東宝

(イラスト:Yuri Sung Illustration

1 2
S H A R E
  • URLをコピーしました!

text by

株式会社TOITOITOの代表です。編集&執筆が仕事。Webサイト「ふつうごと」も運営しています。