【スープとイデオロギー】拳銃ではなく鍋を手に、殺戮ではなくスープのレシピを

思い出せないのか、思い出したくないのか。混乱するオモニの記憶と、スープのレシピ

「思い出せないのだろうか、思い出したくないのだろうか」

アルツハイマー型認知症により記憶と時間軸が混乱していくオモニに対し、ヤン監督はそう呟く。過去、介護施設で働いていた経験からすると、アルツハイマー型認知症の場合、新しい記憶ほど薄れやすく、遠い過去の記憶ほど鮮明である印象が強い。事件の凄惨さを踏まえても、私個人としては「思い出したくない」気持ちのほうが強いように感じた。

両親が兄たちを北朝鮮へ送り出したこと、その後母が借金をしてまで息子たちへ仕送りを続けることに、ヤン監督は怒りを感じていた。しかし、その根底に済州島4・3事件があったことを知り、彼女の心境は大きく変わる。恐怖には、人を支配し、根底から揺さぶる力がある。だからこそ、ヤン監督は安易にそちら側を選ぶべきではないと考えるようになったのだろう。

本作には、オモニと香織がスープを作る場面がたびたび登場する。一度目は、娘の婚約者を出迎えるためにオモニが作る。その後、オモニに教わりながら香織がスープを作り、最後は香織がオモニのためにスープを作る。大きな丸鶏のお腹にニンニクと高麗人蔘を詰めて、たっぷりのお湯で煮詰めていく様子は、見ているだけでつばが湧く。

北朝鮮を支持する両親。自身をアナキストと称するヤン監督。日本生まれの日本人で、フリーライターとして活動する香織。それぞれ異なるルーツとイデオロギーを持つ人々が、“家族”として温かなスープを囲む。ぽろぽろと記憶が抜け落ちていくオモニの変化を見守る様を含めて、人同士の関わりが丸ごとスープに溶け出していくように思えた。

このような関わりこそが、対話を生み、悲しみを回避する手段なのではないだろうか。拳銃ではなく鍋を手に、殺戮ではなくスープのレシピを広める。そうやって生きられるはずの“人間”という生き物同士で、これ以上殺し合ってほしくない。奪い合ってほしくない。

イデオロギーが同一ではなくとも、同じスープを飲んで「おいしいね」と微笑みあうことはできる。それこそが人間の本質であると、私は信じたい。尚且つ、根幹には「歴史を直視する」覚悟があってほしいと、心から切望する次第である。

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■スープとイデオロギー
監督:ヤン ヨンヒ
脚本:ヤン ヨンヒ
撮影監督:加藤孝信
編集:ベクホ・ジェイジェイ
プロデューサー:ベクホ・ジェイジェイ
音楽監督:チョ・ヨンウク
アニメーション原画:こしだミカ
アニメーション衣装デザイン:美馬佐安子
エグゼクティブ・プロデューサー:荒井カオル
ナレーション:ヤン ヨンヒ
配給:東風
公式サイト:https://soupandideology.jp/

(イラスト:Yuri Sung Illustration

*1:正式名称は、済州4.3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法。金大中キム・デジュン政権だった2000年、事件の真相究明と犠牲者の名誉回復を目指す目的で法案化された。2021年に改正案が成立し、2022年から犠牲者の遺族に補償金の支払いが始まった。

<参考>
虐殺とタブー視、それは「遠い過去」なのか――韓国・済州島の記憶(Dialogue for People)
自国民数万人を虐殺・・・暗黒の歴史「清算」の現場を訪ねた 韓国・済州島「4・3事件」(東京新聞 TOKYO Web)
済州島の悲劇を語り継ぐ、大阪の在日コリアン「私たちのルーツ知って」…「四・三事件」の報告書作成へ(読売新聞オンライン)
教育勅語の暗記、拒んだ友に・・・ 植民地で教師になるまで(朝日新聞デジタル)
〈在日社会〉「植民地支配の責任忘れず」(東洋経済日報)
「楽園の国とだまされた」 北朝鮮帰国事業の脱北者が法廷で訴え(朝日新聞デジタル)

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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。