【スープとイデオロギー】拳銃ではなく鍋を手に、殺戮ではなくスープのレシピを

「済州島4・3事件」の背景にある、“帝国”による実質的支配

済州島4・3事件は、突如起きたわけではない。そこに至るまでの歴史的背景があり、長年強いられてきた抑圧と理不尽が根底に根付いている。1945年8月、太平洋戦争が終結したのを機に、朝鮮半島は日本による戦時強制動員や創氏改名(新たに「氏」を創設させ、「名」を改める政策のこと)などの支配から解放された。しかし、アメリカと旧ソ連が新たに進駐し、南側で米軍政が3年間続くこととなった。

その後、貧困やコレラの流行、天災などが追い打ちとなり、支配層に対する島民の怒りは強まっていく。1947年3月1日、「3・1節」の記念行事の最中、外国勢力からの支配を逃れ、独立を求める人々が済州島に集った。この際に起きた暴動をきっかけとして、米軍政府は済州島を「アカの島」と決めつけた。日本の圧政に呻き、ようやく解放されたと思ったら米軍の圧政に苦しめられる。その無念と憤りは、いかばかりだったろう。これらの時代遍歴を鑑みれば、「済州島4・3事件は日本とは無関係」などとは、到底思えない。

幼少期のオモニは、もともと大阪で生活をしていた。すべての朝鮮人が皇国臣民(朝鮮人の民族性を抹殺し、〈亜日本人〉化すること)とされた時代であった。オモニが15歳の頃、第二次世界大戦の影響で大阪大空襲があり、済州島へ疎開するために船に乗った。しかし、戦争から逃れるためにたどり着いた島では、南北の分断の煽りを受け、米軍支配による鎮圧作戦の果てに大勢が殺された。オモニの婚約者も、4・3事件を契機に命を落とした。

生き延びるため、オモニは母(ヤン監督の祖母)が手配した密航船に乗った。船が出る港まで、3歳の妹を背負い、まだ幼い弟の手を引いて、オモニは30キロもの道のりを歩いた。「赤狩りの名の下、動く影はすべて殺せ」と命令された軍と警察の検問をくぐり抜けるため、ただの散歩を装い歩き続けた。その道程の恐怖は、想像に難くない。

もしも、日本が朝鮮半島を支配していなければ。もしも、太平洋戦争が起きなければ。さまざまな「if」が交錯する中で、思うことは一つだった。他国を蹂躙する支配は、悲しみと憎しみしか産まない。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)刊行。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評・著者インタビュー『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『婦人公論』|ほか、小説やコラムを執筆。海と珈琲と二人の息子を愛しています。

エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)
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