【かかってこいよ世界】きっと、私も誰かを傷つけてきた

“違い”もあれば “同じ”もある

人間は社会的動物。他者と協力し合いながら生きていく。

けれども、それは自分の仲間と見なした人とだけ。
共に生きる、とはある種のチームをつくることだと思う。出自や思想、特性など、何かしらの“同じ”を見つけて自分たちをカテゴライズすること。

だから、チームの連帯が強くなるほど、チームに属さない人間を排除するようになる。チームの外側の、よくわからないものは、自分たちに何をしてくるかわからないから。安全圏であるチームを壊されるのが怖いから。それが、差別が始まる入口だと思う。

しかし、元来100%同じ人間なんて、存在しない。どんな人とも “違い”もあれば、“同じ”もあるのだ。当たり前のことなのに、わざわざ「多様性」なんて言葉を流行らせないといけないくらいには、私たちは“違い”を受け入れるのが苦手だ。長い歴史の中で“同じ”ばかり偏重してきてしまったのかもしれない。たとえ“違い”だらけだって、いいじゃない。“同じ”人間なのだから。

多様な人間たちが共に生きていくためには、目の前の相手を何も知らないままに「恐るべき外側」と決めつけてはいけない。どんな相手とも“同じ”を見つけ、“違い”を認め合うこと、そして、その人の状況や気持ちを想像することが大切だ。

たとえば私は、在日韓国人ではない。「差別された」と強く意識したこともない。その点は、国秀との“違い”だ。けれども振り返ってみれば、カテゴライズされて「外側」としてバカにされたことはあった。性別。出自。学歴。今もっているもの。もっていないもの。人に優劣をつける物差しとして納得できないものばかりが、要因だった。幸いなことに、私は傷つかないふりをできるくらいのことだったけれど、もし国秀のような状況だったとしたら。

自分のルーツを隠さなくてはいけない。本名も言えない。好きな人と家族になることだって、容易ではない。悪いことなんて何もしていないのに、アイデンティティを隠して生きざるを得ない。想像するだけで、怒りと苦しさが込み上げる。当たり前のことなのに、目を背けてきてしまった。そのことに気がつくことは、在日韓国人に対する認識や接し方の変化につながっていくはずだ。人間だけがもつ知性や想像力を、やさしく使えるといい。

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S H A R E
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東京在住。コピーライター。好きな映画は「ファミリー・ゲーム/双子の天使」「魔女の宅急便」。