フロムが『愛するということ』を出版した75年後の2022年に『母親になって後悔してる』という本が出版された。
イスラエルの社会学者であるオルナ・ドーナトによる同著には、以下の2つの基準を満たした人のインタビューが掲載されている。
ひとつめの基準は「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」という質問にノーと答えること。2つめの基準は「あなたの観点から、母であることに何らかの利点はありますか?」という質問にノーと答えることだ。
なぜこの本がイスラエルで出版されたのか。
世界の先進国で合計特殊出生率が低下する中、イスラエルの出生率は3.04(2020年)と群を抜いて高い。その背景にあるのは、子だくさんで知られるユダヤ教超正統派の人口増加であり、その出生率は6.64である。つまり、イスラエルは世界トップクラスの「こどもを産むのが当たり前」の国であり、「女性が母親になるのが当たり前」の国なのだ。
本書の中から、著者の言葉を引用する。
「良き母」は、たとえば、疑問や条件なしにわが子の一人一人を愛し、母であることに喜びを感じなければならない。もしも母の道にバラが飾られていない場合は、状況に伴う苦しみを楽しむことが課題となる。それは、人生に必要かつ避けられない苦痛なのである。
母がこのモデルに規定された道徳的規準に従って行動しない場合——不可能であれ拒んだのであれ——たちまち「悪い母」のレッテルを貼られる可能性がある。道徳的にも感情的にも問題のある無法者と見なされるのである
社会が「母であること」について母に許容する唯一の答えは「私は母であることを愛しています」だけなのだ。
彼女たちは、母としての現状や人生を評価するために、1分たりとも立ち止まることができない。なぜなら、母が他者のために存在する客体であることに依存する社会にとって、彼女たちがそこに留まらないことは、あまりに恐ろしいことだからである。
「なぜ母になった後悔について話すのか」という質問は、裏返して考える必要がある。「母になった後悔について黙らせたその結果は?」と。存在しないふりをしようとするとき、誰が代償を払うのか?
このありふれた裁判で真に問われているのは「なぜロランスはわが子を殺したのか」ではなく、「ロランスは母になることを望んだのだろうか」あるいは「ラマは母になることを望んでいるのだろうか」ということなのではないか。
物語を持たないロランスとラマ。二人はその答えを出すことができない。第三者が事件までの生い立ちをきれいになぞっても、そこに物語を浮かび上がらせることはできない。だから、周囲の人は自分の物語を語るしかない。
「子育ては誰だって大変なものだ」
「母親なのにわが子を殺すなんてありえない」
「ロランスは都合のいいことをその場しのぎで言っているだけだ」
「ロランスは反省などしていない」
「ロランスは呪術のせいにして責任逃れをしている」
「ロランスはわが子の死を悲しんでいない」
しかし、その物語は本当に自分の物語と言えるのか。あなたは物語を持っていると言えるのか。