過去、私自身も「怪物」として扱われた経験がある。それも、かつて愛した人に。
私には二人の子どもがいて、離婚を経験している。子どもたちの親権をめぐり、元夫と争っていたとき、彼は「私がいかに母親として不適切な人間か」を力説した。ご飯を作らない、子どもを日常的に怒鳴る、殴る、感情的に家を飛び出す。そんな母親に親権は渡せない。元夫は、そう主張した。彼が主張する答弁や書面の中の私は、「怪物」そのものだった。
ではなぜ、そんな母親に我が子を任せて仕事を続けられたのか。そう問いかけると、「任せられないから親を呼び寄せた」と彼は主張した。彼が両親を呼び寄せたのは、私が離婚を決意したあとの話だ。当時、長男はすでに12歳だった。
元夫は、いかなる理由があろうとも「仕事を休まない人」だった。私がインフルエンザになったときも、流産したときも、外出先で倒れて救急車で搬送されたときも、彼は仕事を休まなかった。「そんなことで休めない」。それが、元夫の口癖だった。私はほぼワンオペで、長男を12歳まで、次男を5歳まで育てた。彼の主張が正しいとすれば、「任せられない母親」に12年間我が子を押し付け、日常的な虐待を見てみぬふりしていた父親です、と自己紹介したことになる。
怪物はお前だろう。
親権争いの最中、私たちはお互いにそう思っていた。我が子と一緒に暮らしたい。我が子を守りたい。思いは同じであるはずなのに、どちらかが「不適格」でないと結論が出せない。そんな不条理を、悲しいと思った。
あのとき、思い知った。「本当」のことになんて、誰も興味がないのだ、と。息子たちの未来の話をしているのに、彼らがこぼした本音を、誰も拾おうとはしなかった。
映画「怪物」を鑑賞しながら、あの当時のやるせなさを思い出していた。誰かにとっての「本当」は、誰かにとっての「嘘」だったりする。はじめは小さな嘘だとしても、それはやがて雪だるま式に大きくなる。こんなことがしたかったんじゃない。こんなことを言いたかったんじゃない。そう思う頃には、後戻りできないところまで怪物が育っている。