【怪物】私たちはいつも、「正しい」答えを探しすぎる

その問いは、視点が保利に切り替わった直後、私の中で大きく揺らいだ。物事をどの角度から見るかにより、印象はガラリと変わる。起きた「事実」はひとつでも、それをどのように捉えるかは人によって様々だ。

人の身体の表面は、皮膚で覆われている。それと同じく、人の心の表面も、「常識」や「良心」、「世間体」などの薄皮で覆われている。だが、それらを一皮剥けば、誰もが心の奥底に「怪物」を飼っている。そして、「怪物」のすべてに悪意が存在するとは限らない。悪意なき怪物はいる。「何かを守ろうとする」善意の中にも、怪物は現れる。

本当の怪物は、目に見えない。怪物は、怪物の姿をしていないからこそ怪物なのだ。

「無意識」の怪物は、至るところに存在する。多数派の人間に沿って組み込まれた現代のプログラムが、少数派の人間を「無意識」に排除しているのと同じように。

湊と依里は、友情を超えた感情を互いに抱いていた。それ故に、二人は自分たちのことを「ふつうじゃない」と思っていた。自分たちは怪物で、人間の脳ではなく“豚の脳”でできている。だから幸せになれない。そう思い、苦悩していた。

依里の父親は、日常的に我が子を虐待していた。だが、父親は虐待行為のことを「治療」と認識しており、自身の行動を“罪”とは感じていなかった。力でも口数でも大人に勝てない子どもの依里は、本当の気持ちを奥底に押し込めて、体や心に痣を増やし続ける。その痛みは、いつも「見えない」ものにされる。

我が子の本音を認めず、暴力を振るう父親。その歪んだ姿は、依里本人だけではなく、湊をも絶望させた。大切に想う人が目の前で引きずられ、殴られる音を聞きながら助けることさえできない。その絶望は、どれほどのものだろう。自分が望む相手と温かな時間を共有する。たったそれだけが許されず、「自分は幸せになれない」と思い込まされる社会を、正常といえるだろうか。

本作の怪物が依里の「父親」であるという単純な話ではない。冒頭にも記したが、「怪物探し」をすることに意味はない。むしろ、それをすればするほど、作品の本質からかけ離れていく。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。