【郊外の鳥たち】都市開発が搾取するもの、社会と個人の連続性

随所に散りばめられるヒントのようなものは、しかし捨て置かれるだけだ。少年ハオが青年ハオの過去だと明確に示されることはついぞない。でもこのふたつの時空は、ゆるやかに作用し合う。ただしけっして交わらず、また結合しない。各々の時空の住人が異なる時空を垣間見るのは、決まって「何か」を媒介にしているときに限られる。日記、測量機、双眼鏡。これらのアイテムが“いまここ”ではない世界の片鱗を、覗く者だけに見せる。

青年ハオは故郷の地盤沈下を憂うあまり、調査に熱が入ってしまう。そんなハオの姿勢を、問題が炙り出される前に切り上げたい上司が叱責する。「おまえ、もう30歳だろ」大人になれよ、大人の事情を汲めよ。見なかったことにしておけよ。こんな具合に。

故郷はつまり、人間の原風景だ。杭州の一角はハオの人格の基盤そのものであり、それが不安定であるために、ハオ自身も揺らぐ。個人の問題と社会の問題は、どのような物事であれ切り離すことはできない。個人の問題を延長ないし拡大した先に、社会の問題が存在する。

ハオが安定して立つためには、ハオ自身の基盤を強化する必要がある。そのために杭州という土地で、少年ハオの時空と干渉し合うようになったのだろうか。薄らいでしまった過去として、あるいは青年ハオの理想郷として、もしくはパラレルワールドに生まれたハオの幼少期として、少年ハオの時空が青年ハオの時空に関わりを持つようになった。ハオという人物が内に抱える欠陥、地盤沈下を起こし揺らぐ彼の核を補完するため、少年ハオの時空が接近してきたのではないか。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。