【ボーンズ アンド オール】生きるということはすなわち、だれかを損ない続けることなのかもしれない

人肉を喰らわずにはいられないマレンとリーが惹かれあったのは、「同族」だったからだけではない。およそ人道に悖る行為を遂行しなければ生きていけぬ自らの定めを、どうにも呑み込みきれずにいるからだ。あまりにひどい宿命を背負い切ることも断ち切ることもできないマレンとリーは、その葛藤を共有しているからこそ、ごく自然に愛し合うようになる。

けれども人喰いとして生き始めたばかりのマレンと、長らく放浪を続けながら人喰いとしての生き方を正当化しようと苦心するリーは、ときに衝突する。カーニバルで捕食した単身者だと思い込んでいた男性に実は妻子がいたことを知ると、マレンは混乱に陥る。「だれも傷つけたくない」と叫ぶマレンに、リーはこう返す。「選択肢は少ない。喰べるか、自殺か、自分を監禁するか」──自身の両腕までも喰らった同じくイーターであるマレンの母のように。

だからだろうか、マレンは重要なシーンでしばしばリーを置いていく。「ついていこうか」と申し出るリーを、“Stay here!”と突き放す。母親の実家を訪ねるときも、母親が入院している精神病院に面会へ行くときも。

17歳から4年間、ずっとひとりきりでイーターとして生きてきたリーは、心の奥底に善悪や道徳を押し込めてしまった。人を喰らう自らに罪悪感を覚えようとも、それが宿命ならば開き直るしか生きる道はないから。諦念で麻痺したリーの心臓は、マレンによって再び動き出す。感受性を引き摺り出し、折り合いの付け方を模索しようとするマレンの手により、褪せていたリーの世界は鮮やかに色づき始める。

「俺を悪い人だと思わない?」と涙ながらに訊くリーに、マレンはきっぱりと答える。「ただ、あなたを愛してる」と。

ところでイーターたちが実在するとしたら、おそらくその存在は、どこかの段階で世間に広く知られることとなるだろう。文明は進歩するし、科学は発達する。そんな世界でイーターが息を潜めて人を喰らい続けることなど、不可能なんじゃないか。

その上で。イーターが生まれ持った「本能」は、果たしてイーター自身の責任なのか。イータ自身の罪悪なのか。イーター自身が贖わねばならないものなのか。

ぼくはまず間違いなく、NOを突きつける。イーターたちは、悪くない。人間の生命を喰らう欲求を備えて生まれたマレンとリー、そのほかふたりが道中で出逢うすべてのイーター、彼ら/彼人ら/彼女らが選択した属性ではない。

だったら、非イーターの(この場面においての)マジョリティであるぼくたちにできることはひとつだ。共存する道を探す、イーターたちと手をとって。たとえば喰人の欲求を満たす代替物を開発するだとか、あるいはイーターが定期的にカウンセリングを受けられるよう制度を整えるだとか。

喰人を目的に人の命を奪うことは、いうまでもなく殺人だ。犯罪であり、とうてい肯定できる行為ではない。それでもなお、それとはべつにして、イーターの「本能」自体は罪悪ではない。もしイーターがこの世にいるとしたら、変えるべきはシステムだ。イーター自身ではなく、個人ではなく、社会を変えていくべきだ。我々と同じく「人権」を持つマイノリティを尊重することは、社会で生きるすべての人間の責務だ。

1 2 3 4
S H A R E
  • URLをコピーしました!

text by

ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。