阿川大吾の暴力性と無力さ
ここには決して埋まることのない深い分断がある。
異常性を理解しないまま何かを信仰している場合、その人の信仰をどうにかして醒めさせるという、説得を試みることができる(これも傲慢な話だけど)。
しかし、恵介の場合は、自身や後藤家の言動の異常性をそれなりに正しく自覚している。それでもなお、自分の意志で決断し、行動しているのだ。つまり恵介は、「阿川が後藤家のことを異常者としてみている」ことを織り込み済みで行動しているのだ。したがって、阿川と恵介は深い溝を隔てて必ず平行線を辿ることになる。この事実に、阿川は無力感とともに恐怖を感じていたのではないだろうか。
絶対的なわかりあえなさを前にして無力になった阿川は、暴力を行使するしかなす術がなかった。自身の常識の範疇を超える恵介がそれでもなお歩み寄ってくるのを前にして、阿川は暴力という仕方で狼狽えるしかなかったのだ。
供花村の因習に揺るぎない正義感で“ノー”を突きつけ、容赦ない暴力を振るう阿川の姿は、痛快で気持ちがいい。「ガンニバル」の見どころのひとつだろう。
しかし、同時に阿川の暴力には、「自分の価値観では“ナシ”な相手には(言葉の)暴力を厭わない」SNSの状況を想起せずにはいられない。
阿川は暴力を好んでいると思わせるところがあるが、ここで考えたいのは、阿川が暴力を好む人間か否か、あるいはその是非についてではない。決定的に和解できない人や思想に出会った時、阿川は暴力を振るうしか方法がなかったということだ。
阿川の暴力性に私がSNSの状況を想起したように、決定的な分断を前に平行線を辿った両者には話し合いの術がなくなってしまう。
「お前は間違っている」としか言えないなすすべのなさと無力感が、目の前の人間との距離を決定的なものとし、そして恐怖すら感じさせ、最終的には暴力につながってしまうのではないだろうか。
阿川の血気盛んな性格で見えにくいが、「ガンニバル」にもそういった構図があるのではないかと感じた。
ただし私は、人々は完全にはわかりあえないのだから暴力は致し方ないということを言いたいわけではない。わかりあうことを決して諦めてはいけないと本心から思っている。
ただ、私は「ガンニバル」を見て思い出さされたのだ。
何もかもわかりあえると思い込んでいたことを。暴力が想像以上に身近なものであったことを。
「わかりあえる」と思い込んでいる人間が絶対的な「わかりあえなさ」に遭遇した時、簡単に無力になり、暴力がすぐそばでこちらを見ているということを。