【すずめの戸締まり】悼み、鎮め、謹んでお返し申す。そして私は、明日へ向かう

扉を探す草太に見覚えがあった鈴芽は、彼を探して廃墟に迷い込む。その際、意図せず後ろ戸を封印していた要石を抜いてしまい、その結果、草太は人間の姿を失い、椅子に変えられてしまう。その椅子は、鈴芽の母親が生前作ってくれた、大切な形見の品であった。自らが招いた災いを鎮めるため、鈴芽は、椅子の姿をした草太と共に、後ろ戸を締める旅に出る。

草太を椅子に変えたのは、もともと九州地方の要石を担っていた「ダイジン」と名付けられた猫であった。草太も鈴芽も、ダイジンに「要石に戻れ」と迫るが、ダイジンはそれを拒否する。要石がなければ、ミミズが現世に溢れる。大地震が起き、大勢の人間が死ぬ。だが、ダイジンはもう、要石に戻りたくなかった。だから代わりに、草太に要石の役割を移した。

このくだりだけを聞けば、ダイジンがさぞ非道な生き物に思えるだろう。しかし、私は、ダイジンを責める気にはなれない。要石。それはいわば、人柱のようなものだ。どこへも行けず、誰もいない場所で、誰にも感謝されず、誰にも知られず、己の体を杭として災いを防ぐ。そういう役目が必要だとして、誰がそれを自ら引き受けたいと思うだろう。

人はみな、自分がかわいい。自分だけは助かりたい。そのくせ、その裏で犠牲になっている何かの存在は、都合よく見て見ぬふりをする。

ダイジンはきっと、誰かのそばで、命ある者として生きたかったのだろう。物音ひとつしない水辺で、ひとりきりで杭となる時間は、あまりに冷たく、寂しかったのだろう。だから鈴芽の「うちの子になる?」の一言にすがった。そんなダイジンが草太に要石の役割を移したとて、誰に責められるだろう。それと同じく、大切な人を要石に変えられてしまった鈴芽の悲しみや怒りも、誰にも責められるものではない。

人の感情は、繊細で複雑だ。

怒りを爆発させながらも、ダイジンを床に叩きつけられず、泣き崩れる鈴芽。その姿を見て、思った。人を人たらしめるものは、実は理性ではなく、感情なのではないか、と。理性は、一度失われてしまえばそれまでだ。しかし、感情は違う。何かしらの理由で感情が薄れる瞬間はあれど、感情が根本から消えてしまうことはない。怒りを鎮めるのは悲しみで、憎しみを抑えるのは情愛で、だから鈴芽は、ダイジンを傷つけることができなかったのではないか。

感情は、行動に直結する。しかし同時に、私たちは無意識に、感情をもってして行動を制御しているところがあるのではないだろうか。

荒ぶるミミズの姿は、人の思念の集合体が渦巻くもののように見えた。それらを鎮め、喪われたものを悼み、過ぎ去ったときの声を聞く。「閉じ師」の仕事は命がけで、鈴芽はそれを全うすべく、ひたむきに走り続けた。

災いを防ぎたい。現世に溢れるミミズを鎮め、世界を救いたい。大切な人を、もとの姿に戻したい。

鈴芽の願いは、ごくごく当たり前のものでしかなかった。しかし、その道のりは、あまりに険しく残酷だった。それでも、育ての親である叔母の環、草太の祖父の羊朗、旅の途中で出会ったたくさんの人々に支えられて、鈴芽はどうにか、旅の終着点にたどり着く。そこは、鈴芽の生まれ故郷、東北の港町だった。

鈴芽がはじめて草太に出会ったとき、「見覚えがある」と感じた理由。ほかの人には見えないのに、鈴芽にはミミズや常世が見える理由。後ろ戸の存在と、鈴芽がたびたび夢に見る邂逅の記憶。それらの真実がひとつなぎになった瞬間、物語の扉は、静かに締められた。鈴芽自身の手によって、「行ってきます」の言葉と共に。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。