【アイ・アム まきもと】体は死んでも、想いは死なない。故人の弔いに心を尽くす牧本が、求め続けた景色とは

年配者の「孤独死」が社会問題になって久しい。ひとり暮らしの人が自宅で事切れた場合、誰にも見つけてもらえないまま、死後数日、もしくは数ヶ月が経過してしまうケースもある。尚且つ、身寄りのない人や、家族がいても縁を切られている人は、遺骨の行き場がない。誰しもが、死後に骨を納める墓を持っており、弔ってくれる家族がいるわけではないのだ。

牧本は、そんな身寄りのない人々の「おみおくり」の瞬間に、誠心誠意寄り添う。自身もまた身寄りのない境遇だったため、重ねあわせる部分があったのかもしれない。いずれにしろ、周囲から見れば「異質」とも捉えられる熱量で、牧本は故人を知る人物を必死に探し出す。葬儀に参列し、故人の死を弔ってもらうために。

最後に担当することになった蕪木は、無骨で喧嘩早い人物だったため、あまり評判が良いとは言えなかった。しかし、誰かを守るためには己が傷つくこともいとわない、人情味にあふれた一面もあり、そこを慕う人たちも少なからずいた。同じ工場で働いていた元同僚、かつての恋人とその娘、蕪木に命を助けられた友人など、幾人もの人から蕪木の人物像を聞き出した牧本は、とうとう彼の娘へとたどり着く。

満島ひかり演じる蕪木の娘、津森塔子は、かつて父が働いていた養豚場に勤めていた。すでに母も亡くしていた塔子は、父の死の知らせを聞き、「これで親は居なくなったってわけね」と声を詰まらせる。そんな塔子に対し、牧本は言った。

「わかります」

「その気持ちは、僕にもわかります」と、牧本はそう言った。

この場面より以前、彼はその真反対にある言葉、「わかりません」を連発していた。

「僕にはわかりません」

私たちは、多くの会話を言葉に頼っているようでいて、実は「言葉以外のもの」にも存外頼っている。彼が「わかりません」と言った回数は、私たちが日頃どれだけ「察する」コミュニケーションを無意識に多用しているかを端的に表していた。しかし、親を失い、孤独を感じて涙を流す塔子の気持ちを、牧本は「わかる」と言った。その言葉は、まっさらで嘘がなかった。その場を適当にやり過ごすための、相手に合わせただけの「わかります」では、決してなかった。

空気を読むのが苦手で、心の機微を察知できない。その特性は、正直生き辛いだろうと思う。しかし、だからといって、それは「人の気持ちがわからない」こととイコールではない。自身が体験したこと、味わったことのある感情は共有できるし、明確な言葉を用いて話せば、共感はできずとも理解はできる。

1 2 3
S H A R E
  • URLをコピーしました!

text by

エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。