指揮者として、作曲者として頂点を極めたリディア・ター。多忙な日々の中で、たびたび幻聴を感じるようになる。ある日、かつて指導したことのある若手指揮者が自殺するという知らせが飛び込んで──。
監督は「イン・ザ・ベッドルーム」「リトル・チルドレン」のトッド・フィールド。主人公のリディア・ターをケイト・ブランシェットが演じる。音楽は「ジョーカー」「ウーマン・トーキング 私たちの選択」のヒドゥル・グドナドッティル。
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傷を負う
個別の事象から全体を語ることはできない。
にも関わらず、地球は確実に温暖化していると言わざるをえないほどの暑さだった5月の夜、六本木の映画館に「TAR」を観に行った。
家の近くの映画館でも上映していたがスクリーンが小さい。仕事として見るのだし、スクリーンが大きい方が伝わってくるものの量やら質やらが優れているんじゃないか、という非科学的な理由で、六本木の映画館に行くことにする。
不幸はこのようにささやかに始まる。
19時半の上映に間に合うように家を出たものの、予定より遅れたせいで夕飯を食べる時間がない。158分の長丁場を空腹に耐えながら見るのは避けたい。不慣れな街を散策する余裕はなく、目についたうどん屋に渋々入る。床がペタペタしている。特にうどんを食べたいわけではないが選ばなければいけない。小中大の量が全くわからない。グラム表示にしないのは何か理由があるのだろうか。わからないまま中を頼む。ちょっと足りないかもしれないなと不安になり、かきあげも買う。
時計を見ながら焦って食べる。しかし、いざ食べ始めてみると中は多い。かき揚げはいらなかった。どうしてこんなことになるのだろうか。うどんでなくケバブを選ぶべきだった。あの迷い。あのためらい。肉を削いでる人と常連らしき人の会話に割って入る勇気があれば、運命は変わっていたのだ。穴が詰まっている七味唐辛子の容器をこんなにも一生懸命振らなくて済んだのだ。
いや、全て忘れよう。
これから僕はアカデミー賞6部門ノミネートされた作品を観に行く。主演のケイト・ブランシェットのキャリア史上の最高傑作と言われている作品を観に行くのだ。しかも、作中で僕の大好きなマーラーの交響曲第5番をとりあげるらしい。世界最高峰と言われるベルリン・フィルの女性指揮者の話だ。演奏もきっとすばらしいに違いない。
気を取り直して僕は映画館に向かう。5分前に席について映画が始まるのを待つ。
それにしても平日の夜に六本木で映画を観る人というのは普段どんな暮らしをしているのだろうか。自分もその一人であることを無視して周囲を見回すが、背もたれが大きい椅子のせいでよく見えない。まあいい。たまたま同じ空間にいる人に対して何かの感情を抱くような機微は持ち合わせていない。
照明が落ちる。
2席空けて座っている人がポップコーンをかじる音がする。
*
呆然。
感情が渦巻いているのか、凪いでいるのか、空白になっているのか。判然としない。
自分がどんな感情なのかわからない。呆然という状態でしか形容できない。
23時前の六本木を歩く。だらしなく見える街並みがただただ不快だ。ぬるい空気が気持ち悪い。ヘラヘラ話している若い男女の集団がうっとうしい。疲れている。地下鉄の駅が遠い。喉が渇く。トイレにも行きたい。イヤフォンをつけて世界を遮断したいが、音楽は聴きたくない。足早に歩く。
僕は何かしらの傷を負ったのだと思う。それによって、心の機能が低下し、世界を拒絶している。
しかし、僕を傷つけたものが何なのかが判然としない。僕は何に傷つけられたのだろう。