【TAR/ター】痛む傷、どこにでもある力、隔てる何か

彼岸と此岸を分ける「何か」

権力もエゴも狂気も僕の中にすでにあるものだ。長年付き合ってきてすっかり馴染んでいる。天才指揮者と兼業主夫。違いすぎる彼女と僕にはむしろ共通点の方が多いようにも思えてくる。

しかし、僕は彼女に共感はしなかったし、感情移入もしなかった。僕は冷たい観客として、彼女を、彼女の身に起こることを見続けていた。

それは、僕の感受性の問題ではない。

この映画には、観客が彼女に対する共感や感情移入をさせない何かが込められている。この作品を観て僕がダメージを負ったのはそこだ。彼女に歩み寄らせない何か、彼女に手を差し伸べさせない何か、彼女を突き放す何か。その何かを観ている側は突きつけられ続ける。席に座っている、無力な観客として。その関係性を158分強いられるのだ。

これがNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」のようなドキュメンタリーであれば、観ているうちに僕の心はリディア・ターに近づいていっただろう。彼女に対して気持ちを寄せるようなことがあっただろう。しかし、この作品ではそのようなことは起こり得ない。

リディア・ターの表情はかたい。ずっと世界を突き放すような表情をしている。指揮者であり、成功者である彼女の言葉には力がある。その言葉には、人の心を動かすような大事なこと、真実が含まれていることもわかる。彼女がその言葉を信じていること、嘘を言っていないこともわかる。

しかし、彼女の言葉は響かない。彼女の言葉をそのまま受け取らせない何かがある。彼岸と此岸を分ける線が引かれている。

彼女の純粋さ、家族への愛情、音楽に対するひたむきさに触れることもできる。しかし、それを善なるものと素直に受け取らせない何かがある。

リディア・ターは一流の指揮者である。観客とオーケストラの結節点であり、音楽を生み出す起点である。そんな彼女の映画が、こんなにも観客と距離を置くものになっているというのは皮肉を通り越して狂気にしか思えない。彼女の持つ「力」はスクリーンの外には届かない。

観客の体温を下げるような印象的なラストシーンを「彼女にとっての救いの可能性として描いた」と語るトッド・フィールド監督の中にも、リディア・ターの持つ狂気は確かに宿っている。

この「何か」が僕を傷つけたものの本体なのだろう。今、僕はこの「何か」を言語化することができない。一生できないかもしれない。わからなければ治すことはできない。傷を負ったまま生きていくしかない。

映画を観た翌日、僕は体調を崩して一日仕事を休んだ。鈍い痛みが徐々に引いていくことを願うのみだ。

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■TAR/ター
監督:トッド・フィールド
脚本:トッド・フィールド
撮影:フロリアン・ホーフマイスター
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
衣装:ビナ・ダイヘレル
編集:モニカ・ヴィッリ
美術:マルコ・ビットナー・ロッサー
出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィー・カウアー、ジュリアン・グローヴァー、アラン・コーデュナー、マーク・ストロングほか
配給:ギャガ

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!