愛の境遇を憂慮した貴瑚は、彼を救うべく孤軍奮闘する。
「辛かったね。でも、あんたの声、私には聞こえたから」
愛にそう言った貴瑚の声を、最初に聞いてくれたのはアンさんだった。しかし、貴瑚はアンさんの声を聞き逃した。人と人は想い合えるが、時に悲しいほどすれ違う。奪われ、傷つけられ、そのぶん誰かを傷つけながら生きてきた貴瑚は、だからこそ愛の声を取り戻したかったのだろう。
「愛されたかったんだ」と貴瑚は言った。憎しみでも怒りでもなく、絞り出すように吐き出した本音は、虐待被害者の根底にある想いと共通する。子どもは、親に愛されたい生き物だ。あるがままの姿を認めてほしい生き物だ。愛されたい人に愛されない。そのことが、何より子どもを苦しめる。
彼らの声が、届けばいいのにと思う。もっと広く、もっと高く、どこまでも届けばいい。52ヘルツの声は、本来「届かないもの」ではない。本当は聞こえているのに、「聞こえないふり」をされているだけだ。現実から目をそむけず、耳を澄ませる人が増えれば、彼らの声は遠くまで響く。
どうか、聞いてほしい。物語の世界だけではなく、現実世界で必死に叫ぶ人たちの声を。映画だけを観て、「感動したね」「考えさせられたね」で終わらないでほしい。あなたの隣にいる人が52ヘルツのクジラである可能性は、世間が思っているよりずっと大きい。
私自身、己が抱えるマイノリティの要素を、実名で関わる人たちには一切明かしていない。両親から受けた虐待の数々も、それにより奪われたものも、解離性同一性障害を患っていることも、私の元夫や息子たちは知らない。明かせない理由がある。明かしたら壊れてしまうものがある。そこには、明かした途端に指をさされる社会の偏見が根付いている。それでも、声を届けたい、聞いてほしいと願う。だからこうして筆名で書く。
52ヘルツのクジラたちは存在する。
私たちは、ここにいる。
■52ヘルツのクジラたち
監督:成島出
原作:町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』
脚本:龍居由佳里
脚本協力:渡辺直樹
撮影:相馬大輔
照明:佐藤浩太
美術:太田仁
装飾:湯澤幸夫
録音:藤本賢一
特機:奥田悟
衣装:宮本茉莉、江頭三絵
音楽:小林洋平
主題歌:Saucy Dog「この長い旅の中で」
出演:杉咲花、志尊淳、宮沢氷魚、小野花梨、桑名桃李、余貴美子、倍賞美津子ほか
配給:ギャガ
公式サイト:https://gaga.ne.jp/52hz-movie/
(イラスト:水彩作家yukko)