【蟻の王】適切な関係と正しい愛

正しい愛は適切な関係から生まれる

例えば、あなたに高校生の子どもがいるとしよう。その子が通う高校の教師と恋愛関係になっていることを知ったら、あなたは何を思うだろうか。

教師と生徒という権力の勾配があり、年齢にも経験にも大きな差があり、二人の間に偏りがあるのは明白だ。

そんなことをする教師は普通ではない。年齢差があるのに気持ち悪い。対等な関係から生まれたわけではない不純な関係だ。そんなのは「本当の恋愛」とは言えない。そんなことを思うだろうか。

僕の身に実際に起きたら、今ここに書いたこと全てを思う気がする。子どもの恋愛を応援できる自信はない。では、なぜそう思うのか?

それは、僕が「正しく愛し合うためには、一定の条件を満たす必要がある」と思っているからだ。世界には正しい愛とそうでない愛があり、適切な関係からしか正しい愛は生まれない。そう思っているから、適切でない関係やそこから生まれる愛を僕は否定的にとらえている。教師と生徒の恋愛には何か間違いのようなものが含まれていて、それは正しい、いい恋愛とは言えない。愛し合っているとお互いに思っていても、きっとうまくいかないだろうと思っている。

この僕のまなざしは、70年前のイタリアで同性愛を否定し、アルドとエットレを苦しめたものと全く同じものだ。

正しくない愛、適切でない関係とはどんなものだろう。僕はそれを「正しく」判別できるのか。その「正しさ」に「多数派がそうである」という以上の根拠はあるのだろうか。不倫は悪か。SMは暴力か。お見合い結婚は不幸か。適切な関係とは何だ。正しい愛とは何だ。

アルドは年長の知識人であり、教育者でもあった。画家志望のエットレは彼を尊敬していた。それは決して対等な関係とは言えない。また、アルドが愛したのはエットレだけだったわけではない。裁判でもエットレ以外の教え子がアルドと性的な関係を持ったことを証言している。

裁判を通じて、僕はアルドが教唆罪に値する行為をしたのだと思った。エットレに「師匠選びが芸術家の第一歩だ」と語った彼は、アーティストとしての自分の魅力を知っていた。教え子から自分がどう見えるかを知っていた。僕は、アルドが年長者、教育者としての地位や立場を意識的に利用して、教え子と関係を持ったのだと感じた。そのことについて、アルド自身も自覚的だったのではないかとも思った。

でも、だからといって、アルドがエットレを愛する気持ちが本物ではなかったわけじゃない。エットレの、アルドに対する愛情が権力やグルーミングによって生み出された偽物なわけじゃない。本物も、偽物もない。適切な関係が、正しい愛があるわけじゃない。適切な関係からしか正しい愛が生まれない、そんなことがあるわけがない。論理も正義もいらない。2人の間にあるもの、2人をつないでいるもの、その存在を第三者が認めるかどうかは関係ない。

エットレは法廷で語る。「不自然な関係などない。心が求めたから彼を好きになったんだ」「ここに罪人はいない」。

しかし、僕の根底には、彼らの愛を排除したのと同じ論理と正義が、確かにある。僕は排除する側に立っていて、今現在も誰かを排除している。その僕が、裁かれるアルドと損なわれるエットレに対して何を思えばいいのだろうか。

※ジャニー喜多川氏が行ったような、不特定多数かつ未成年へのグルーミングのような人権侵害行為を正当化しているわけではないことを付記しておく。

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S H A R E
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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!