【理想郷】だれもが闖入者ないし闖入される側になることについて自覚的でいなければならないし、敬意を払い続ける必要がある。

夫婦という闖入者は、村人たちが貧しくとも恵まれなくとも生活の中で見出してきたレーゾン・デートル──時折だれかの尊厳を踏みつけるものだとしても──を根本から否定してしまう存在だった。洗練された知識と未知なる価値観をもって村を新たな方向へ導こうとする行為自体が、村人たちの存在価値を脅かすものだった。それは彼人らにとって、この上ない苦痛だ。だから一致団結して夫婦を排除する必要があった。移植された臓器を排除しようと細胞が蠢くみたいに。

そして夫婦は悲劇を迎える。軋轢を修復することはついぞ叶わず、物語の後半でオルガは静かな抗戦を選択する。

ところでジェンダー・ロールに倣うと、アントワーヌの闘い方は非常に「男性的」であり、オルガの闘い方は「女性的」と捉えることができる。その対比はいささか古臭いが、そもそもアントワーヌとオルガの年齢を考えれば妥当であろう。悲劇を生んだのは、おそらくふたりの闘い方の違いでもあった。それがきっと、オルガと娘・マリーのほのかな確執にも繋がっている。“闖入者”は村にとってのアントワーヌとオルガだけではないのだ。

村人たちは、アントワーヌは、オルガは、マリーは、シャンは、ロレンソは、兄弟の母は、いったいどうすべきだったのだろう。村が夫婦にとっての地獄とならないために、夫婦が村の“よそ者”にならないために。相互理解ほど困難なことは、もしかするとこの世にないのかもしれない。

ただ言えるのは、だれしもがだれかの闖入者になり得るし、だれしもがだれかの闖入を受ける可能性があるということだけだ。生きている限り、それは避けられない。目に見える問題に限らず。それゆえひとはそれについて、自覚的でなければならない。悲劇を迎えぬために、地獄を生まぬために、“闖入者”としてできること、“闖入”を受ける者ができること。異なる知恵と教養、文化を持つ者たち──時としてそれは個人間の問題にもなり得る──は、「我々は異なっているのだ」と意識しながら、注意深く慎重に、敬意をもって接し続ける必要がある。

複数及び多数のマイノリティに属する──しょっちゅう闖入者になったり闖入されたりするぼくとしては、そんなふうに考える。

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■理想郷(原題:As bestas)
監督:ロドリゴ・ソロゴイェン
脚本:イザベラ・ペーニャ、ロドリゴ・ソロゴイェン
撮影:アレハンドロ・デ・パブロ
美術:ホセ・ティラド
衣装:パオラ・トレス
編集:アルベルト・デル・カンポ
音楽:オリビエ・アルソン
出演:ドゥニ・メノーシェ、マリナ・フォイス、ルイス・サエラ、ディエゴ・アニード、マリー・コロンほか
配給:アンプラグド
公式サイト:https://unpfilm.com/risokyo/

(イラスト:水彩作家yukko

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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。