性の言語化と自由の獲得
名づけることで、言語化することで、僕らは新しい概念を手に入れることができる。新しい選択肢を持つことができる。そうやって、人は環境に適応し進歩し自由を手に入れてきた。
一方で「性」のような言語化しえないものの取り扱いは、未だに上手くない気がする。概念を細分化し、その一つ一つに言葉を与えて説明しようとしても、切り刻まれたそれらは、表現したかったものの断片でしかない。たとえ個々の断片を正確に説明できるようになっても、それらを合わせて元の概念を説明できるわけではない。臓器の研究をしても生命についてわかるわけではない。
「性」は身体的なもので、自分の中にしかない。とらえどころがなく「これだ」と示すことはできない。厳密な定義ができないから、共通認識を作ることもできない。要素分解もできない。
「性」と向き合うには、他者の身体と時間を独占しなければいけない。コントロールは難しく、自分の思い通りにはならない。欲しがっても手に入らないし、いらないのに持っていなければならない。
概念として定まらない、理解も制御も不能な「性」というものを人は内側に抱えて生きている。望む望まないにかかわらず、そういう存在として生きている。生きていくしかない。身体の内にある「性」を言葉で切り刻むことで、僕らはそれを理解できるようになっていくのだろうか。制御できるようになるだろうか。自由に近づけるのだろうか。
こうして考えると、春画が社会に存在していたころの「性」に対する大らかさは、「性」というものの取り扱いの難しさを考慮すれば、むしろ妥当で適切な態度だったようにも思えてくる。
人を好きになることすら標準化されている、現代の僕らが春画的世界観で生きることは難しいだろう。しかし、今身体の中にある「性」というものを、理解や制御をするために言葉で切り刻まずに生きていくことはできる。言語化をせず、曖昧さと理不尽さを受け入れて、つながりと擦れを繰り返し、自分と他人の失敗を笑い、「仕方ないよ」と慰め合う。
言語化とは別の形で自由を手に入れる一つの方法なのではないかと、密かに思っている。
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■春画先生
監督:塩田明彦
脚本:塩田明彦
撮影:芦澤明子
照明:永田英則
録音:郡弘道
美術:安宅紀史
装飾:山本直輝
音楽:ゲイリー芦屋
出演:内野聖陽、北香那、柄本佑、白川和子、安達祐実ほか
配給:ハピネットファントム・スタジオ
公式サイト:https://happinet-phantom.com/shunga-movie/
(イラスト:水彩作家yukko)