権力、エゴ、狂気
リディア・ターは権力者である。
音楽を作り上げていくときと同じように、ステージの外で彼女は権力を行使し、自分の得たいもののために人を動かしていく。指揮をするかのように人事権を行使する。
彼女は狡猾で周到だ。さも必要なことであるかのように、自然なことのように事を進めていく。目的のために手段は選ばない。二枚舌を恐れない。言葉の重みを使いこなす。社交的で、ポジティブに話しつつ、やりたいことを通していく。
リディア・ターはエゴイストである。
自分や自分の身近にいる人を傷つけた人には攻撃する。自分の身の回りの世話をしてくれていた人でも価値がなくなれば見捨てる。必要だと思えば他人のPCを盗み見る。自分を守るために嘘をつく。相手の立場を考えずに、自分がしたいことを優先する。自身の性的な欲求を満たすために、建前を用意して仕組みやルールを変える。
彼女のエゴイスティックな振る舞いを見せられるたびに、なんとも言えない嫌悪感を感じる。その嫌悪感の対象は彼女ではなく、僕自身だ。彼女がやったことに近いことを僕も人生でやったことがある。彼女と同じように僕も自然に、無自覚にやっていることがスクリーンに映し出される。さらに、僕と同じように彼女の行為の動機も凡庸なのだ。女性指揮者として世界の頂点に立っている人物とは思えない、つまらなくて、くだらない理由。そのことに対しても嫌悪感を抱く。嫌悪感のループから抜け出せない。
リディア・ターは狂っている。
158分の長い上映時間、スクリーンにはリディア・ターがひたすら映り続ける。車の中での会話、朝のランニング、執務室での事務作業、オーナーとの会食、自室での作曲。映画というよりはドキュメンタリーのように彼女の日常が提示される。
しかし、その中に意味を受け取れない、不条理なシーンがすっと差し込まれる。
誰かわからない女性の後姿。深夜に突然鳴り始めるメトロノーム。人がいないのに鳴るインターフォン。遠くに聞こえる子どもの鳴き声。なぜかなくなってしまった楽譜。家に誰かがいると言ってカーテンの陰に隠れる娘。
断片的なシーンは突然始まり、突然終わる。込められた意味を理解できないまま、日常のシーンに接続していく。現実なのか幻想なのかわからない。その境目のなさに狂気を見る。現実と思っていることと幻想と思っていることの違いのなさに不安を覚える。
作品を通じて突きつけられる権力、エゴ、狂気。僕はそれらに傷つけられたのだろうか。