小さな日常の積み重ねが、やがて人生となる
「ケイコ 目を澄ませて」の主人公・ケイコは、生まれつき両耳が聞こえないプロボクサーだ。英題は「Small, Slow But Steady」。タイトルの通り、彼女が不安や葛藤の中で「小さく、ゆっくり、でも着実に」日々を積み重ねていく様子が描かれる。
積み重なる小さな日常。
ボクシングの練習。同僚との会話。街の風景。なかには、カットしてもストーリーが成立してしまうようなシーンも多くあった。けれども、その一つ一つは、ケイコが「小さく、ゆっくり、でも着実に」歩みを進める瞬間。どれも決して欠かすことのできない、物語に必要なシーンだった。
本作に限らず、すべての人の日々もそういうものなのかもしれない。
私たちの毎日は、起承転結が明快な物語作品と比べると、大きな意味をもたないようなシーンがほとんどだ。しかし、人生は観客のためのコンテンツではない。通り過ぎてしまいそうな小さな日常にもすべて意味があり、その積み重ねが、やがて人生となっていく。
自分の感覚を自覚し、他者とともに生きていく
作品の中で特に印象的だったのは、音である。
冒頭は、静かな部屋の中でペンを走らせる音から始まる。ケイコがトレーニングノートを記す音だ。その後も印象的な音がどんどん続いていく。ミットの音。家事の音。街の音。自分自身もふだんからよく聞いている生活音のはずなのに、こんな音だったっけ?と思う。
複数の音が重なり、リズムも規則的だったり、変則的だったりする。その物質ならではの表情というか、キャラクター性のようなものを感じることもあったし、人間の感情が音に乗っているように感じることもあった。音を意識し始めた途端、なんでもない生活音が美しく聞こえ、なんでもない小さな日常の風景も愛おしく感じた。