【ある男】謎の解けないミステリー

人は、なぜ嘘をつくのだろう

彼を思いながら鑑賞するなかで、彼の感情が自分の体の中にぐっと入り込んだような感覚になった瞬間があった。Xが自らの肉体をかきむしるような行動をとるシーンだ。

映画館のスクリーンの淵までいっぱいに、Xの苦しみが満ちていた。人間は、生まれてから死ぬまで自分の肉体を取り替えることはできない。それでも、どうにかして肉体をまるごと取り替えたい。そう叫ぶかのような彼の姿は、狂気さえ感じるほどで、観ていて苦しかった。

まるで私の肉体の中にも逃れようのない毒が充満し、いつまでもうるさく騒いでいるようで、ゾワゾワが止まらなかった。作品の前半、里枝や子どもたちと過ごすシーンで描かれていたXの表情とは、まるで違っていた。

果たして、Xが名前を偽っていたことは、許されることなのだろうか。

そう簡単には答えを出せない問いだ。誰から、何から許されるかによっても、答えは異なるだろう。ただ、私はどうしても彼の嘘を否定する気にはなれなかった。世の中には「つかざるを得ない嘘」というのがあるように思った。

人生は一方通行。後ろに進むことはできない。いいことも、悪いことも、どんなにちいさなことも、なかったことにはできないのだ。それでも、なにかを変えたい。どうにか現実を好転させたい。そう願う時、人は嘘をつくのかもしれない。 鑑賞後、しばらく経った今なお、私は時折Xを思う。謎は明らかにならないばかりか、深まっていっている。もう少し、想像を続けてみることにしよう。

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■ある男
監督:石川慶
原作:平野啓一郎『ある男』
脚本:向井康介
編集:石川慶
撮影:近藤龍人
照明:宗賢次郎
美術:我妻弘之
録音:小川武
装飾:森公美
スタイリスト:高橋さやか
ヘアメイク:酒井夢月
音響効果:中村佳央
音楽:Cicada
出演:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、仲野太賀、真木よう子、柄本明、きたろう、カトウシンスケ、河合優実、でんでんほか
配給:松竹

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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東京在住。コピーライター。好きな映画は「ファミリー・ゲーム/双子の天使」「魔女の宅急便」。