二郎の父親にとっては、妙子がどういう人間であるかよりも、初婚であること、尚且つ子連れでないことのほうが大事だったのだろう。到底理解しがたいが、そういった価値観を持つ人は、時代、年代に限らず一定数存在する。
妙子が義父に「中古」と言われたとき、義母は庇った。その様子を見て、まだ救いがあると感じた。しかし、直後に義母が囁いた一言は、私の目の前を一気に暗くした。
「次は、血のつながった孫を抱かせてね」
その瞬間の妙子の表情に、見覚えがあった。傷つき、固まり、それでも場の雰囲気を壊さぬよう平静を装う大人の顔。これまで何度も、何度も何度も、あの顔を鏡で見てきた。
傷ついたからと泣きわめく人間を、この国は良しとしない。努めて冷静に感情を圧し殺せる人間だけが、大人であると認められる。息苦しい、と思う。「社会のモラル」なるものに緩やかに絞め付けられるたび、人は感情の行き場を失う。どこにも行けない感情は、身の内で腐っていく。どろどろに、醜く、腐っていく。
義母も、義父も、妙子に対して非道な態度ばかりを取る人たちではなかった。温かい言葉をかけ、心を添わせる場面もあった。それでも、前述したエピソードが強く頭に残っているのは、私自身も「嫁」という立場でさまざまな葛藤を経験してきたことに起因する。また、私の特性も無関係ではないだろう。どんなにやさしい言葉をかけられても、たった一度の暴言が忘れられない。私には、昔からそういうところがある。
映画はその後、思いもかけない展開へと進んでいく。進んでいくというよりは、転がっていくと表現したほうが正しい。予想外の大き過ぎる喪失。そこから雪崩のように続く、すれ違いと悲しみの連鎖。その様は呆気に取られるほどで、私の小さな器では、到底受け止めきれなかった。
「喪失」という意味では、一番痛かったのは、紛れもなく妙子だろう。もしも自分が妙子だったら。想像するだけで眩暈がし、理性が崩れそうになった。妙子も当然、正気を保っていたわけではない。だが、それでも彼女は、周囲の空気に合わせて可能な限り平常運転を努め、淡々とタスクをこなした。それが最善だと、腹に力を入れるしかなかったのだろう。
大きな悲しみに直面すると、うまく泣けないことがある。喉元まではこみ上げるのに、あとひと息のところで涙が引っ込んでしまう。涙の量が悲しみの総量と必ずしもイコールではないのに、泣けない自分を冷たい人間だと責め抜き、その葛藤を口には出せず、奥深くまで飲み込む。そうやって堆積されていく悲しみの沼を、多くの大人たちが持て余している。
妙子の息子である敬太は、オセロが得意だった。幼いながらも、大会で優勝してしまうほどの名手だった。盤の上に並ぶ、黒と白の石。あんなふうに、はっきりと白黒がつくものだけが「愛」だったなら、きっとみんな、こんなに苦しまないだろうに。