【エレファント・マン】「僕は人間だ!」誰もが等しく尊重され、人権が守られる世界を願って

人は、自分と異なる生き物を本能的に恐れる。それは見た目だけの問題ではなく、目に見えない障害、たとえば精神疾患などに対しても同様で、他者に対して躊躇いなく「化け物」と口にする人は後を絶たない。健常者が圧倒的に多い社会において、ジョンのような存在は「人間である」ことを認めてもらうところからはじめねばならない。それがいかに異常な事態か、少し考えればわかるだろう。

一部のマジョリティは、マイノリティの存在を自分が「認めるか否か」で判断する。これはあくまでも一部の人の話であり、多くの人々は相手の話に耳を傾けてくれる。だが、残念ながらそうではない人が一定数いるのも事実だ。マイノリティの存在を自分が「認める」権利を持っていると考える者は、その驕りがいかに醜悪なものか自覚するべきだろう。

認める・認めないにかかわらず、ジョンは人間である。ほかの障害者においても、当然ながら化け物なんかじゃない。みな同じ、ひとりの人間だ。平等な基本的人権が憲法で定められているからじゃない。それが、人間としての道徳の根底になければならないものだからだ。

ジョンを見せものにした人たち、自分のエゴのために彼を折檻した者、彼を人間扱いしなかった人たちを、私は強く非難する。彼の外見を目にして、一瞬驚いてしまうのは無理もない。正直な気持ちを吐露すれば、私もはじめは衝撃を受けた。だが、彼の怯えた目や、静かに詩集を暗唱する様、喜びに打ち震えて涙を流す光景を見てもなお彼の存在に恐怖を抱き続けるのは、思考停止と言わざるを得ない。

ジョンは、誰のことも傷つけてはいない。彼はただ生きているだけで、傷つけられ続けたというのに。

「彼の人生は誰にも想像できないと思う」

カーゴム院長のこの言葉は、真理である。ジョンの症例は非常に珍しく、他の疾病と比べてあらゆる意味で生きにくさが突出している。だからこそ、私たちは想像しなければならない。想像できないことを、決して本当の意味では理解できないことを、私たちは知る努力をするべきだ。「わからないから」というのは、相手を傷つけていい理由にはなり得ない。

映画中盤、ジョンの慰問に訪れる人々の様子を見て、看護師長がトリーヴズに「彼はまた見せものになっている」と苦言を呈す場面がある。その言葉を受けて、トリーヴズは自分の行動が偽善なのではないかと思い悩む。そうやって、あらゆる角度から考え、悩み、立ち止まる姿勢こそが大切なのだと私は思う。「相手のため」という大義名分は、ときに人の目を曇らせる。看護師長の言葉に深く共感した身としては、トリーヴズが悩む姿にこそ救われるものがあった。

ジョンがトリーヴズと出会わなければ、安らかなる最期を迎えるのは難しかっただろう。誰と出会うかで左右されるのが人生だが、本来、そうあるべきではない。「運」などという気まぐれなものに左右されず、必要な人が必要な支援を受けられる社会であれば、ジョンは長く不遇の時代を過ごさずに済んだ。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)刊行。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評・著者インタビュー『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『婦人公論』|ほか、小説やコラムを執筆。海と珈琲と二人の息子を愛しています。

エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)
https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760155729