ジョンがコミュニケーション可能であることを知ったトリーヴズと院長のカーゴムは、彼の接遇について一計を案じる。まずは、ジョンの認知を広めるために著名人の慰問を計画。慰問の様子が新聞各紙で大々的に取り上げられ、結果的に多額の寄付金が集まった。さらに、ヴィクトリア王女からもジョンの接遇に関心を寄せる書状が届いたことが決め手となり、ジョンはロンドン病院に終生滞在できることが決定した。
トリーヴズから「ここは君の家だ」と告げられたジョンは、涙を流して喜ぶ。これまでどこに行っても外見のせいで恐れられ、拒絶される毎日だった彼にとって、「ずっといてもいい場所」ができたことは至福であったろう。見世物小屋時代のように、虐げられることもない。安息の地をようやく手に入れたジョンは、誰憚ることなく幸福に浸る。だが、その幸せは長くは続かなかった。ジョンを見せものにすることで金銭を得ようと企む者たちが結託し、彼の平穏を呆気なく破壊したのである。
ジョンの容姿を見せものにする人々の描写について、冷静に言葉にするのはひどく難しい。それほどにおぞましく、残酷な描写であった。人間という生き物は、自分以外の痛みには驚くほど鈍感になれる。彼を見せものにした中心人物は、怒り心頭のトリーヴズに対してこのように言い放った。
「ちょっと楽しんだだけだ。傷つけてはいない。化け物を見たい人間から金を取っただけだ」
殴る蹴るの暴行は「傷害罪」として罰せられるのに対し、人の尊厳を踏みにじる行為においては、被害者の痛みが軽んじられる。世界共通のこの風潮が、私は憎い。このとき、ジョンは明らかに「傷ついて」いた。そして、ジョンは化け物ではない。人間だ。本作の終盤、彼が叫んだ言葉がすべてを物語っている。
「やめてくれ!僕は象じゃない!動物でもない!僕は人間なんだ!僕はこれでも人間なんだよ!」
ジョンがこの台詞を叫んだ際、彼を取り囲んでいたのは、いわゆる“ごく普通の人々”であった。「どうしてそんなに頭が大きいの?」と無邪気に尋ね、ジョンを追いかけ回す少年を振り切ろうと逃げ出したジョンを、悪意なき人々が追い詰め、脅かしたのである。
差別は往々にして、悪意なき場面で起こり得る。私たちは、いつだって無意識になにかを差別しながら生きている。自身の中に潜む差別感情に自覚的であること、「自分は差別をしてしまうかもしれない」という可能性を常に忘れずにいることが、何より大切だと私は思う。差別は、「した側」ではなく、「された側」がどう感じたかで決まるものだから。差別した側の「あれは差別ではない」という主張の多くは、ただの自己保身であり、責任逃れである。