終盤、ローマンとセルゲイの関係を確信したルイーザは、ローマンがアフガンで戦死した報せを受けて家を訪ねてきたセルゲイを責め立てる。
「妻でもないあなたが、彼の墓の場所を知る権利はない」
旧くからの信頼していた友が、それも男性であるセルゲイが、自身の目を盗んで夫と逢瀬を重ねていたこと。真に夫が恋をしていたのは、自分ではなくセルゲイであったこと。その事実はルイーザの心をも打ち砕く。それでもセルゲイは涙ながらにこう訴えるのだ、「僕の愛は君の愛に負けない」と。それを聴いたルイーザは、セルゲイを思わず抱きしめる。
原作ではルイーザの人となりはネガティヴに描かれていたようだが(実際のセルゲイの立場を考えると無理もない)、この映画の中でのルイーザはごく一般的な嫉妬心と良心を持つ人物だった。
セルゲイとルイーザ、ふたりを踏みにじったのは、果たして本当にローマンなのだろうか。およそ10年前のぼくとひとりの男性を踏みにじったのは、果たして本当に彼女なのだろうか。
答えはNOだ。異性愛者同士以外の婚姻を意地でも認めぬ制度こそが、セルゲイを、ルイーザを、かつてのぼくを、ひとりの男性を──ローマンを、ぼくの昔の恋人を、打ち砕いたのだ。ふたりの行いを「身勝手で傲慢」だと、このシステムを踏まえた上でもなお切り捨てられるひとたちこそ、「身勝手で傲慢」であると、31歳になった現在のぼくは非難する。
LGBTQを題材とした映画や小説などのコンテンツに、しばしば「普遍的な」だとか「ごく普通の」だとか、そんなコピーが付けられる。ぼくに言わせてみれば、反吐でしかない。殊更に「普遍的」と強調することはすなわち、「そうではないと見做される」というメッセージを発しているのと同義だ。だって異性愛のラブストーリーには絶対に使われないコピーじゃないか。
知られているようにクィアの恋愛を扱う映画は、この数年間で多く生み出されている。「ブロークバック・マウンテン」「君の名前で僕を呼んで」「燃ゆる女の肖像」「ムーンライト」「CLOSE」など。邦画では昨年の「怪物」が挙げられるだろうか(もっとも「怪物」に関しては是枝監督の「クィア映画ではない」という“クィアを題材にしながらクィアのほうを向いていない”発言には、作品そのものの素晴らしさはべつとして幻滅させられたが)。
これらの作品は歴史ある賞を獲得していたり、高い評価を受けている。クィア映画が作られ続けるのも、未だ「普遍的」とは言えないぼくらの存在への偏見と差別と迫害への抗議であるのはもちろん、商業的に需要があるからだろう。いずれにせよ世界的に関心を集めているトピックであることは自明だ。それが社会的システムと、ひとびとの意識の改革に繋がっていくことを、一当事者として強く願う。実際に本作は、エストニアの同性婚法制化に大きく貢献した。
結びに。
当時の彼女と、その配偶者へ。「ぼくの恋は、あなたの恋に負けないものだった」、セルゲイに倣ってそう伝えたい。もしもこの日本において異性婚以外の結婚が認められていて、ぼくが学生ではなく、もうすこしあなたと年齢が釣り合っていたならば、あなたとの結婚を真剣に考えていただろう。
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■Firebird/ファイアバード(原題:Firebird)
監督:ペーテル・レバネ
原作:セルゲイ・フェティソフ『ロマンについての物語』
脚本:ペーテル・レバネ、トム・プライヤー
撮影:マイト・マエキヴィ
編集:タムバート・タスジャ
音楽:クシシュトフ・A・ヤヌチャク
出演:トム・プライヤー、オレグ・ザゴロドニー、ダイアナ・ポザルスカヤ、ニコラス・ウッドソン、マルゴス・プランゲルほか
配給:リアリーライクフィルムズ
公式サイト:https://www.reallylikefilms.com/firebird
(イラスト:水彩作家yukko)