【Firebird/ファイアバード】異性婚以外の結婚が法制化していたら、ぼくは、彼らは、どんな未来を辿り、どんな現在を送っていたのだろう。

ぼくは折に触れてその悲惨な失恋を思い出している。年齢を重ね、青春の苦い思い出として昇華できるようになったころには、彼女への憎悪が少しずつ自分の中でかたちを変えていくのを感じていた。映画「Firebird/ファイアバード」を鑑賞しているとき真っ先に思い出したのは、彼女のことだった。

この映画の原作は、本作品の監督ペーテル・レバネ氏のもとに持ち込まれた無名の俳優セルゲイ・フェティソフの自伝である。改編や脚色はもちろんあるが、ほぼ実話と言って差し支えない。時代背景的に筋書きは先行の「ブロークバック・マウンテン」や「君の名前で僕を呼んで」などのゲイ・セクシュアルをテーマにした映画と共通点も多く、ある程度は予測のつく展開にはなっている。それを踏まえてもクィア当事者としては「実際にあったことをベースにした」作品が世に出たことを、喜ばしく思う。我々が流行りものでもなんでもなく、昔からこの世に生きていたことを立証してくれたから。

舞台は70年代後半、ソ連占領下のエストニア空軍基地。兵役終了を目前に控えた二等兵・セルゲイと、新たに配属された戦闘機パイロット将校のローマンは、共通の趣味である「写真」をきっかけに恋に落ちる。文芸の趣味も似通うふたりが距離を縮めるのに、時間は要さなかった。けれども当時のソビエトでは同性愛は「犯罪」だった──もとより現代のロシアでも未だタブー視されているが。

ローマンは士官であり、国を捨てることはできない。彼はロシア軍のエースで、将来を約束された立場にあり、本人もまたそれを自らのアイデンティティとしている。そのくせ、彼のほうからセルゲイに仕掛けるのだ。年若いセルゲイを誘惑し、かと思えばつれなく突き放し、セルゲイを翻弄する。物語はセルゲイ視点で展開していくから、観賞している者はセルゲイに自然と感情移入してしまう。だからぼくも当然セルゲイに憑依し、苛立ち、哀しみ、高揚し、幻滅していた。

ある午後、オペラやバレエや詩について森の中で語り合っていると、ぐうぜん通りかかった諜報員に見つかりそうになり、慌ててふたりは草陰に身を隠す。無事に撒いてほっと胸を撫で下ろしたあと、セルゲイとローマンはごく自然に、吸い寄せられるようにキスをする。またあるときは人目を忍んで海水浴に出かけ、岩陰に隠れながら抱き合う。

彼らが互いに触れることのできる場所は、いつだって“陰”に限定されていた。関係が軍に、世間に知られれば、ふたりともこの先、生きていくことすらできなくなる。地位を失うだけでは済まされない。それをわかっているから、ローマンはセルゲイに対しときに冷酷とも言える態度を取らざるを得ない。ローマンの言動は自己保身のためだけではなく、セルゲイを守るためのものでもあったのだ。セルゲイも痛いほどそのことを理解している。だからこそローマンが彼の親友であり軍の同僚であるルイーザと結婚したときも、引き裂かれる心を押し込めて式に出席したのだろう。

ローマンは平凡な家庭と、地位と名声と権力を欲する男だった。それゆえセルゲイの「国外へ逃げて一緒になろう」という誘いを拒む。だれかの密告で上官にセルゲイとの関係が露呈しかけたとき、「これまでもこれからも君とは何もなかった」と彼を断絶する。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。