【島守の塔】日本が“加害国”でもあることを自覚した上で、戦争反対を叫ぶべきじゃないのか。

いったいなにがしたかったんだろう、日本帝国とやらは。

多くの犠牲者を生むとわかっていながら、どうしてここまで戦争を推し進めたのだろう。なにを求め、なにを得るつもりだったのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。こんな愚かしい教訓が、果たしてほかに存在するだろうか。国なんて単なるシステムに過ぎない。個人や文化や民族をわかりやすくするための──ときに隠しやすくするための──、ただの装置だ。もちろんそれが一概に無価値だなんて言うつもりはない。それでも、たかがそんなものの存続や発展のために、なぜ個人の生命が捧げられなければならなかったのだろう。命より優先すべき利得がこの世に在ると本気で疑わないひとの脳みそをくり抜いて、その中身を覗いてみたい。だけどきっと、ぼくにはとうてい理解し得ぬ愚論が詰まっているだけだろう。石油を撒いて燃やしても、残った灰は肥やしにすらならない。むしろそれを撒いた地から有毒ガスが発生しかねない。生命を尊び慈しむ肥沃な地に、このような愚物は不要なのだ。

愚物たちは今もなお、懲りずに世界中で戦争を起こす。ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザにおけるイスラエルとハマスの戦闘。そのほかにも、アフガニスタン、ミャンマー、イエメン、エチオピア・エルトリア、ソマリア、シリア、南スーダンなどで、大規模な殺戮行為が行われている。歴史の教科書のトピックじゃない、2023年末現在の話だ。

特にウクライナ侵攻とガザ地区のジェノサイドは、日本でも大々的に報道されているから多くのひとびとが関心を寄せている。「自分たちが侵攻されたら」と怯え、憂い、STOPをかける運動に署名し、全国でデモが行われ、大勢のひとが言及している。

ただ、冒頭で述べたようにぼくは日本と韓国とロシアにルーツを持つ書き手だから、次の問題を投げかける責任がある。一連の報道を通じ、日本がかつて「加害国」であったことに自戒の念を覚えたひとは、どのくらいいたんだろう。南京、満州、朝鮮、アイヌ、そして琉球──沖縄。日本がしたことを省みて、その歴史を繰り返してはいけないと、“加害国にルーツを持つ人間として”STOPを叫んでいるひとは、どのくらい存在しているのだろう。

被害者に心を寄せることも、侵攻される側に自国を重ねることも大切だ。言わずもがなだけど。原爆被害は後世、伝え続けていかなくてはいけない。アメリカ人のごく一部は今でも「原爆はやむを得なかった」と主張しているが、やむを得ない虐殺などこの世に在りはしない。身の毛がよだつ被害体験を忘れない限り、ひとは愚行に及ばない。けれども「加害国だった歴史を持っている国民として」、自国の歴史を恥じた上で、こんなことをしてはいけないと主張することもまた、必要なのではないか。それこそがかつての加害国に属する人間の、責任なのではないか。率直に言うとぼくは、生まれながらに日本国籍かつ他国にルーツを持たぬひと(そんなひと地理的に考えて存在するはずないけれど)が被害者のみに自らを重ねて戦争反対を口にするのを見ると、苦いものが込み上げる。

「沖縄を返せ」が歌われなくなった理由、それは日本が掲げていた「本土並み・核抜き」での返還が達成されなかったからだ。基地問題は現在も続き、辺野古移設は現地のひとびとの意思を無視して強引に進められている。

原爆投下の歴史とともに、大量虐殺と民族浄化、植民地支配の歴史を、忘れてはいけない。戦争にNOを突きつけ、ジェノサイドにSTOPを叫ぶのなら。「被害国であり加害国でもあるからこそ戦争反対を掲げる」、そういうかたちで当事者意識を持つことが、日本にルーツを持つ者の責任なんじゃないか。そしてその責任は、被害国と加害国にルーツを持つぼくの両肩にも掛かっている。

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■島守の塔
監督:五十嵐匠
脚本:五十嵐匠、柏田道夫
原案:田村洋三『沖縄の島守ー内務官僚かく戦えり』
プロデューサー:川口浩史
音楽:星勝
撮影:釘宮慎治
出演:萩原聖人、村上淳、吉岡里帆、香川京子、池間夏海、榎木孝明ほか
配給:毎日新聞、キューテック
公式サイト:https://shimamori.com/

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。