【ほかげ】戦争が人から何を奪い、何を壊すのか。戦後も続いた“戦火”の影で生きた人々の絶望と闇を描いた物語

そんな女性の店に、ある日ふらりと帰還兵が訪れる。その人は、優しい物腰ながら、何かにひどく怯えていた。その後、帰還兵と盗みを働く少年は、女性の住む居酒屋に住み着くようになる。女性に対しても、店に入り浸る少年に対しても、帰還兵は穏やかに優しく接した。「戦争がはじまる前は教師をしていた」と語る男性は、教科書を開き、少年に算数を教えはじめた。少年を真ん中に、川の字になって眠る三人の姿は、まるで疑似家族のようであった。悪夢にうなされる少年に、両脇から二人が「大丈夫だよ」と声をかける。それは父母の眼差しのようで、闇の中に一筋の光を見たような気がした。だが、その光は呆気なく消えた。

前述した複雑性PTSDは、稀に衝動的な発作を起こすことがある。帰還兵の男性もまた、突如強烈な不安と恐怖に駆られ、乱暴なやり方で女性の体を求めた。子どもがいる空間で行為に及ぶことに抵抗を示した女性は、男性にしたたかに殴られる。騒ぎに気づき、女性を庇おうとした少年もまた、男性に投げ飛ばされた。「やめて!」という女性の悲鳴が、空気を震わせた。しかし、場の空気を一瞬にして凍りつかせたのは、意外にも投げ飛ばされて重症を負った少年だった。

少年は、いつも肩掛け鞄を肌身離さず持ち歩いていた。中身を誰にも触れさせず、見せようともしなかった。少年が鞄の中身を取り出し、男性の後頭部に突きつけた途端、暴れ狂っていた男性は恐怖で硬直した。まだ幼い少年の手が握っていたのは、拳銃であった。男性が這うように逃げ去ったのち、女性と少年は折り重なるようにして倒れ込んだ。

体を売る以外に生きる術のない女性。誰も傷つけたくないのに、恐怖に支配される男性。生き延びるために、拳銃を握る少年。おびただしいほどの過酷な現実が横たわる光景を目にして、「これのどこが“戦後”だ」と叫びそうになった。これを“戦時中”と呼ばずして、なんと呼ぶのか。

映画のストーリーだけで判断するならば、帰還兵を「悪人」だと思う人もいるだろう。しかし、本当にそうだろうか。たしかに、女性や子どもに暴力を振るうのは許される行為ではない。辛い体験をした。それは、「人を傷つけていい理由」にはなり得ない。そのことを重々承知の上で、彼はやはり優しい人だったのだと私は思う。優しい人だったからこそ、戦争を経験して心が壊れたのだ。壊れた心を修復する暇もなく、眠れぬ夜をいく晩も過ごし、ようやく辿りついたのが女性の住む半壊の居酒屋だった。そこで、折悪しく不安と恐怖に駆られた。彼が恐怖に駆られた原因は、外で鳴った威嚇用の爆竹の音だった。

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)刊行。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評・著者インタビュー『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『婦人公論』|ほか、小説やコラムを執筆。海と珈琲と二人の息子を愛しています。

エッセイ集『いつかみんなでごはんを——解離性同一性障害者の日常』(柏書房)
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