ここでいったん夫婦が村から孤立したきっかけ、つまり風力発電の話に立ち返ろう。いったいなにゆえ、ふたりは反対の立場を取ったのか。風力発電は、環境に極めて優しいシステムだ。一方でデメリットも当然ながら存在する。まずは風車の回転による騒音。続いて台風等の強風時における、倒壊および部品の破損・飛散事故の懸念。そして風の強さによる発電量の不安定さ。物語の中でふたりが反対の立場を取る理由は明確に示されないが、これらのデメリットを見越しての意見だろうと推測できる。
実際にアントワーヌは「補償金だけでは生活が成り立たない」と主張する。長期的な目で見れば村人全員の生活を豊かにするとは言い難い、と。それに対し自分たちの掲げるプロジェクトは、一時的な利益をもたらすだけのものではけっしてない。美しい星空や豊かな緑、この地で育まれる有機野菜などを「魅力」として外にアピールしていくほうが、村の活性化につながる。
なるほどふたりの意見はもっともだ。でも、どこまでも傲慢だ。なぜならその「長期的計画」に村人たちが耐えうるかどうかを、完全に度外視しているから。アントワーヌは、オルガは、己の特権性にとことんまで無自覚なひとたちだった。悲劇的なほど。
繰り返すが過疎化の進むこの村は、常に貧困にあえいでいる。すなわち村人たちが必要としているのは、「より大きな利益」なんかではない。短期的な、すぐにでも手に入る、実際的な“カネ”だ。「長い目で見る利益」など、彼人らにとってなんの価値もない。まさに今、命を繋ぎ生活をしていくことが危ぶまれる人間にとって、長期的な利益など無意味に等しいのだ。彼人らの現実を見つめると、夫婦に苛立ちを覚えるのも無理はない。着古した服を身に纏う自分たちと違い、“よそ者”の都市部出身の闖入者は、いつだって仕立ての良い清潔な服を着ているのだから。
もうひとつ夫婦が見落としている問題がある。アントワーヌとオルガは都市部で生まれ育ち、雨風を凌げる屋根の下で寝起きし、明日の食料の心配などしたこともない。必要十分な教育を受けられて、適切に情報へアクセスできる環境に身を置いて生きてきた。対して村人たちはどうだろう。閉鎖的かつ貧しいこの村は、アントワーヌやオルガのような生育環境を人々に提供できない。村から一歩も出たこともないひと、出ることなく死んでいくひともきっと少なくない。したがって夫婦が持つような知恵や教養や視野なんかを、村人たちは持っていないのだ。
彼人らが夫婦の意見に耳を傾けようともしない要因のひとつは、おそらくここにある。理解できるだけの素地がない。それを育んでくれる環境に恵まれなかった。その象徴とも言えるのが、ロレンソだろう。彼の際立って粗野な振る舞いにはもちろん、コミュニケーション能力の低さにもぼくは違和感を覚えた。彼はいつだって兄のシャンにひっついている。金魚の糞みたいに。アントワーヌに危害を加えるときも、対話をするときも、ロレンソが主体になることはない(アントワーヌがエンストを起こしたときは例外である)。常にシャンが表に立ち、シャンがロレンソに指示を出す。ふたりは壮年の大人とは思えぬほど、いつだってシャムの双生児のようにぴったりくっついて行動する。それはおそらくだが、ロレンソに年齢相応の対話能力が欠落しているからだろう。シャンがいなければ、ロレンソは自分の意見を示すことさえできない。
彼の生まれ持った性質によるものなのか、あるいは物語中で示唆される“事故”の影響なのかは不明だが、いずれにせよロレンソが生き延びていくにはシャンが不可欠だ。またシャンにとっても、ロレンソという存在はなくてはならないものである。「女のいない」シャン──物語の中でシャン自身が「俺たちだってあんたのように女がほしい」とアントワーヌに言う場面がある──が庇護すべき対象であるロレンソは、シャンを「家族を守る立派な大人」にしてくれる唯一の人間だから。この兄弟の関係性も、村人たちの恵まれなさ(妻という存在を対等なパートナーではなく「所有物」と見做す差別的な価値観も含めて)を象徴している。