「好きな人がいるのに、好きではない人と、どうして性行為ができる?それを楽しめる?そこからさらに信頼関係が生まれる??」
わからなさが降り積もっていく。しかし、それは芳賀、辻村、春野の関係性に曖昧さや不可解さがあるからではない。恋愛という枠組みで説明できないだけだ、ということに見ているうちに気づいていく。
ある人に出会う、好きになるきっかけとなるエピソードが徐々に積み重なり、自分の恋心を自覚して、その気持ちを相手に伝える。お互いを知り、愛を深めていく。合意の上で肉体関係を持つ。そして、永遠の愛を誓って結婚し、家族になる。
現代に生きる僕らの恋愛は標準化されている。その枠組みにはまらない流れに僕らは戸惑う。枠組みの中にほとんど含まれていない「性」が前面に出てくると、異質さのようなものを感じてしまう。
「性」には身体性が伴う。というよりも、「性」とは身体そのものだ。だから、生々しく、衝動的で、強い。なぜそう感じるのかを言葉で説明することはできない。そう感じるからそう感じるのだ、という非合理の極みを容易に成り立たせてしまう。動物的で、非理性的であるはずなのに、「今、ここに意識を集中する」というマインドフルネスの実践に最も近いところにある、不可思議で不条理なもの。
芳賀、辻村、春野の関係性は、恋愛ではなく「性」の視点に立って身体全体で、感性でとらえないと意味を見出すことはできない。この映画は自分の普段の感覚で見ると楽しめないのだということが、作品を見ていると自然にわかってくる。見ているうちに、三人の関係性を自然と受け入れられるようになっていく。
作品の後半では、芳賀の亡き妻の双子の姉・一葉が登場する。亡き妻と瓜二つの美しい一葉が登場し、芳賀と春野との関係が揺らいでいく。以降は、言葉で説明するのが難しい展開が続くのだが、最終的には「Mである芳賀と春野が対等な関係を築くために、一葉はSとしての在り方を春野に伝え、それに春野が応える」というかなり想像の斜め上をいく展開になり、芳賀と春野が肉体関係を持つことになる。
文章にすると滑稽に思えるこの展開を、わからなさを受け止める素地を受け手の中に作り出し、役者の迫力と構成の巧みさで真摯なものとして描くことで、リアリティのあるファンタジーとして作品を成立させている。