失われた「性」を求めて
タイトルにある春画が何なのか、春画がどのように生み出されていたのかを知らないと、この映画は読み解けないようになっている。公式ページから解説を引用しよう(同様のことが、作中でも丁寧に説明される)。
肉筆や木版画で描かれ、平安時代からはじまり江戸時代の木版画技術の発達で全盛期を迎えた人間の性的な交わりを描いた画。鈴木春信,鳥居清長,喜多川歌麿,葛飾北斎,歌川国貞など、著名な浮世絵師のほとんどが春画を手がけていた。江戸時代、春画は“笑い絵”とも言われ単に好色な男性のためのものではなく,身分を問わず多くの老若男女が娯楽として愛好した。その根底には明治時代以降西洋化でのキリスト教文化流入以前の日本人が持っていたとされる性をおおらかに肯定する精神が横溢している。
「春画先生」公式ページより引用
現代の日本では、多くのアダルトコンテンツは異性愛者の男性向けに作られている。その内容について「男性にとって都合のよい女性を描き、女性を消費している」という指摘があり、その根底には男尊女卑的な視点、ジェンダーの問題がある。ということが広く一般に話されるようになっている。
世界には、さまざまな性的志向があることが認知されるようになり、その多様性を踏まえて話すことは社会的な前提になりつつある。
(あえて生々しい表現を選べば)「エロい」や「セクシー」という異性の性的魅力を表す言葉を使うときにはかなり慎重にならないといけないし、そもそも性的な視点で異性を見ること自体がどうなのか、というような空気感が少しずつ社会に浸透しているようにも感じている。
そうした現代社会に暮らしている僕らの視点・感覚で春画を見ると「美術的・歴史的価値がある昔のアダルトコンテンツ」としか映らない。しかし、その視点・感覚を手放さないと、春画を、この作品を楽しむことはできない。
春画が描かれていた時代の日本の性に関する感覚がどのようなものか。想像することしかできないが、江戸に幕府公認の娼婦街(吉原)があったり、「入り込み湯」と言われる男女混浴の銭湯がたくさんあったり、男女問わず春画を貸本屋で借りていたり、黒船で来航したペリーに徳川幕府は春画を贈っていたり、性というものが今よりもかなり大らかに取り扱われていたのだろう。
だが、こうした性に対するまなざしは明治維新後に失われていくことになる。近代化と西洋化が進み、性に対して否定的なキリスト教の規範が持ち込まれたからだ。春画は発禁処分になり、混浴は禁止された。大きな視点に立てば、この流れは現在も進行中と言えるだろう(加速中と言えるかもしれない)。
「性」というものが秘匿され、厳密に管理されている中で、失われた「性」の感覚を春画を媒介にして再現しようとしているのがこの作品である(なので、春画の映画ではなく春画的世界観の映画である)。