かなえと悟を心配した菅野は、かなえに探偵の山崎を紹介する。待ち合わせの喫茶店にいたのは、シャーロック・ホームズのようなキザな男でも、フィリップ・マーロウのような陰気な男でもなかった。山崎は外見も喋り方も仕草も、なにもかもがとにかく胡散臭かった。不信感をあらわにするかなえに、山崎は一通りのヒアリングを終えたあとで無遠慮にもこう言い切る。「あなたのご主人は、“人当たりの良さ”で本当の自分を悟られないように生きてきたんでしょう」と。
当然ながらかなえは憤慨する。自分と悟は長年付き合ってきた、悟に会ったこともないあなたにいったいなにがわかるのか。けれども冒頭の台詞を言われて、かなえは口をつぐんでしまう。
他者を理解しているって、どういう状態を指すんだろう。
定義は? 条件は? 根拠は?
ぼくは思うのだ。きっとそんなものはない。だれも、だれのことを本当の意味ではわからない。親密度も共に過ごした年月も、そのひとを「わかっている」証左になんかならない。現にぼくは、双子の弟のことをなにひとつ知らない。連絡先も住所も知らない。彼が今どこでなにをしているのか、それさえもわからない。というより、興味がない。知りたいとさえ思わない。もうかれこれ5年以上、顔を合わせていない。
ぼくがかなえに嫌悪感を抱いたのは、彼女の台詞に弟のそれを重ねたからだ。弟は「現在は姉と疎遠になっているものの、私たちが痛みを共有しているのは事実で、姉に連帯感を抱いている」と言い切っていた。これを書くとき、きっと彼の手はキーボードの上を彷徨ったりしなかったのだろう。彼はこの一文を、淀みなく、軽快に綴ったはずだ。そういう類いの傲慢さと浅薄さと空虚さが、メールの底に沈澱していた。
生まれてからこのかた、ろくに会話も交わしたことがない。共通の経験は生まれる瞬間くらいなもので(とはいえひとりずつ産道を通っているんだから、厳密にはぼくも彼もひとりきりで生まれているはずだ)、あとは一定期間おなじ家に暮らしていただけ。
双子なんて、きょうだいなんて──家族なんて、ぼくに言わせればクラスメイトみたいなものだ。特定の地域の子どもたちが一カ所に集められ、それから再びランダムに、あるいは大人の思惑に基づいて複数の箱に分けられる。ただ同じ箱に詰め込まれただけのひとたちと仲良くなること、連帯感の強制。それに息苦しさと疑念を覚えたのは、ぼくだけじゃないはずだ。
血が繋がっているから。それだけの理由で住居を共にしなければならないことに、違和感を覚える人間だっている。ひとつ屋根の下で暮らしたいと望んだのは、唯一夫婦である両親のみだ。ぼくにも弟にも、選択肢なんてそもそもなかった。
しかしながらかなえの傲慢さを嫌悪こそすれ、弟と同様に空虚だと切り捨てることがぼくにはできない。なぜなら彼女は、悟を愛していたから。